パンドラの箱の底に残されていたもの
「鈴木くんに見てもらいたい写真があるんだよね」
パタゴニアのクライミング・アンバサダーの谷口けいが電話口で、そんなことを私に告げてきたのは、彼女が大雪山の黒岳で亡くなるほんの2週間くらい前のことだった。
私は、「ぜひ。今度いつ会えるかな」というようなことを答えた。その約束が果たされることはなかったけれど。
彼女が私に何を見せ、何を言いたかったのか、今となっては確かめるすべは全くないのが、あの電話は、敗退した彼女のネパールヒマラヤ遠征、パンドラ(6,850m)北東壁の挑戦直後のことであり、会話の文脈や温度感から彼女がパンドラ再挑戦に私を誘ってくれようとしているのだと感じていた。いずれにせよ、2015年12月初旬のその時から、パンドラは私にとって自分事の山になってしまった。

グンサコーラ沿いの道を歩くこと4日、標高4,000mを越え、ようやく白いヒマラヤの峰々が現れる。目指すパンドラはこの谷の遥か奥だ。 写真:鈴木 啓紀
2016年3月には、谷口けいのパンドラ遠征のパートナーであった和田淳二と共通の友人である大石明弘との三人で、彼女の想いを繋ぐという意図も込めて、パンドラを登りに行く具体的な話がまとまった。
しかし、メンバーの大怪我やコロナ禍を挟み遠征プランは二転三転、実際にパンドラへ向かうまでに、8年半もの歳月が流れてしまった。和田淳二は家庭の事情から参加を見送り、替わりに私と大石よりも10歳近く若い、高柳傑がメンバーに加わった。
20代のころから数年に一度、長期の遠征を重ねてきた私は、過去4回ヒマラヤに赴いていたが、成功したのはカラコルムヒマラヤでの一回だけで、30代の前半に3回トライしたネパールヒマラヤは、ことごとく敗退に終わっていた。
ヒマラヤの壁に自分のラインを引くという夢は、私がアルパインクライミングを志したころからのものであり、それを実現できるチャンスを逃し続けてきたことへの忸怩たる思いと痛みは、自分の中に常にあった。

ベースキャンプの上流からパンドラを望む。パンドラは左奥のピークで、登路となる北東壁の全容はここからは望めない。この氷河の左岸(右側)に通じていたチベットとの古い交易路は、氷河の沈降によって不安定で急峻なガレ場に吸収されてしまい、今はもう通ることができない。 写真:高柳 傑
自分にとってパンドラは、夢をかなえる数少ないチャンスであると同時に、この8年半、自分のクライミングを支える熱源にもなってくれた。自分の頭の中のどこかには常にパンドラがあり、パンドラを目指すことで自身を鼓舞し、自分のクライミングに熱を吹き込むことができたのだ。パンドラの失敗は自分にとって大きな挫折と痛みになるだろう、というある種の怖さも感じていたけれど。
8年半の歳月はそれなりに長かった。私と大石はすでに40代も中盤に差し掛かっており、体力、特に疲労からの回復力は確実に落ちてきた。自分たちを取り巻く様々な事柄にはそれぞれに変化もあったし、谷口けいの享年も越えてしまった。

急峻なU字渓谷の底に道が続く。車道のないネパールの奥地では、今もヤクが重要な流通の手段を担っている。 写真:鈴木 啓紀
2024年10月16日、私たち3人は、ようやく本物のパンドラ北東壁と対面することができた。インド、チベット国境にほど近い東ネパールのこの山にたどり着くまで、日本を出てから20日を要した。初めて直接相対するパンドラ北東壁は、写真で見てきたよりもはるかに雪氷が少なく、非常に荒々しい様相を呈してはいたが、登れそうなラインも見出すことができた。
そこから高所順応とレストを挟み、10月25日、壁に取りつく。

パンドラ北東壁全景。 写真:高柳 傑
クライミングはまずまず順調に進んだ。右上する大凹角をボロボロの岩登りで抜け、氷壁を越えて1日目のビバーク。2日目は我々が「大氷柱」と呼んでいた傾斜の強いアイスクライミングのセクションを登り、壁の中間部にある氷雪壁をコンテも交えて抜け、露岩の基部でビバーク。1泊目も2泊目も、雪氷を削って作りだした小さなプラットホームに無理やり小さいテントを押し込んで、3人折り重なるようにして眠った。3日目はアイスランペを左上、その上のテクニカルなミックス壁を越えて顕著な大岩壁の下のビバークポイントへ。ここで初めて足を延ばしてゆっくりと眠ることができた。高度の影響で心拍数は安静時でも高く、体にはそれなりに大きな負荷がかかっている。

壁の最下部では、脆く不安定な岩を登ることを強いられた。2015年の写真と比較すると圧倒的に壁の着雪、着氷が少なく、厳しいコンディションだった。 写真:高柳 傑
4日目は、山頂を往復してビバークポイントに戻ってくる予定で最低限の装備だけを持って出発。不安定なミックス壁で想定よりもタフなクライミングが続く。テクニカルなロックバンドを高柳の巧みなリードで抜け、壁最上部へと続くアイスフルートに入り込む頃には時計の針は15時を回ってしまっていた。時間に追われるようにアイスクライミングを続け、フルートを抜ける垂直のシュガースノーを大石が渾身のクライミングで切り抜ける。傾斜の落ちた雪壁には抜け出したものの、あたりは完全に闇に包まれていた。山頂にはまだ距離があるようにも思われ、我々は標高6,600mを超えたその場所に、ピッケルで半雪洞を掘り、着の身着のままで朝を待つことにした。

壁を登り切り、山頂へと続く傾斜の緩い雪壁に這い上がったのは20時過ぎ。その場所で半雪洞を掘って朝を待つことにした。比較的気温が高く風もなかったが、手指、足指が凍傷にならないよう、一晩中気を使い続けた。 写真:高柳 傑
長い長い夜だった。北斗七星がゆっくりと昇ってきて、ひしゃくの端にあたる7つ目の星がちょうど目線の高さに届くころ、ゆっくりと夜が明け始めた。
明るくなってみると、意外と頂上は近そうだ。ひざ下のラッセルで最後の100mほどの雪壁を登っていき、雪庇を崩して乗りあがるとそこはパンドラの頂上だった。
登ってきた高柳と、続いて大石と抱き合ってお互いを称えあう。大石とは15年近く一緒に登り続け、その膨大な蓄積の果てにこの場所にたどり着くことができた。8年半分の思いと長年の夢が結実した瞬間だったが、私たちの意識は、すぐに決して楽ではない下降に向いていた。
壁を降りるのに2日、さらに1日、うんざりするほど長いモレーンを歩き、ベースキャンプに辿り着いたのは10月31日の日没前。10月24日にベースキャンプを出発してから8日間の山行だった。

奥にそびえるのがパンドラ北東壁。壁の基部へは氷河の段差を越える必要があった。この段差はおそらく2015年には存在せず、その後氷河の融解が進んだことで出現したのだろう。 写真:高柳 傑
「開けてしまったパンドラの箱、中身を確認しに、また必ずいきます」
敗退した2015年の遠征後に、谷口けいはSNSにそう書き残していた。この山の名前である「パンドラ」は、ネパール語で「15」の意味だが、ギリシャ神話の「パンドラの箱」に引っ掛けてのコメントだ。パンドラの箱の中にはあらゆる災いがつまっていたが、最後に箱の底に残っていたのは希望だという。
谷口けいと和田淳二が2015年に開けた「パンドラの箱」、8年半の歳月を経て、私たちは2人から引き継いだパンドラの物語を、一旦完結させることができたのだと思う。
私は正直、パンドラが登れたらもっと嬉しいと思っていた。もちろん嬉しいことは嬉しいし、登り続けてきたここまでの歳月や、クライマーとしての自分に残された時間や機会のことを思うと、負けられない勝負に勝つことができた、という深い安堵感はある。ただ、少し期待していたような、突き抜けるような喜びがあふれる瞬間や多幸感に包まれるような瞬間は訪れなかった。多分この結果を咀嚼するのには、少し時間が必要なのだろう。
パンドラから降りた翌日、ベースキャンプでゴロゴロしながら私が考えていたのは、次の山のことだ。北アルプスのちょっとしたプロジェクトのことを少し夢中になって考えていた。雪の締まった3月に、あの壁とあの壁とをつないで山頂に立ったら楽しいだろうなと。
谷口けいによってパンドラに導かれた私が、そのパンドラの箱の底で見つけたのは「登ることは私自身の一部だ」という確信だった。
登ることを通して、自分の世界を内側にも外側にも広げていく。それが、生きていく上で私が大きな価値を置いているものであり、人生に熱を吹き込んでいる源だ。
私の内側にある静かな熱狂に耳を澄ませ、丁寧に現実の行為として紡ぎ出し、積み重ねていく。そんなことを真摯に続けていきたいと思う。
遠征初期の10月5日にトレッキングルート上で、私たちのスタッフ、ティカ・バハドゥラルさんが、落石事故で亡くなりました。深い悲しみと葛藤の中、関係者との協議を経て遠征を続行することを決断しました。
共に旅をしたティカさんに心からの哀悼の意を表します。ご家族、特にカトマンズにいる奥様と11歳の娘さんに、心よりお悔やみ申し上げます。ティカ・バハドゥラル(43歳)、マカルー近郊サンクワサァバ出身。安らかに眠られますように。