イワナと谷底徘徊者
飛騨山脈の深山幽谷に取り憑かれ、谷底を徘徊し遊歩する。
全ての写真:玉井 秀樹
岩陰からそっと覗くと、プールの真ん中でイワナが浮いていた。一瞬で沢音や仲間たちが消え、イワナが世界のすべてになった。胸びれをゆるませ、まったりと尾びれを振っている。まだ気づかれていない。姿勢を低く保ったままフライラインを引き出し、三番ロッドのコルクグリップを軽く握り直す。キャストの準備をするその一方で、誰にも邪魔されずありのままに振る舞うイワナをこのままずっと眺めていたいとも思った。
やがてイワナは自分の領地である透明の王国をゆっくりとクルージングしはじめ、水面に浮く何かをついばんで静かに水紋を広げた。何を食べたのか分からないが、手掛かりはイワナの棲むこの場所に必ずある。それは、石の上を這うムネアカオオアリか、河原の蕗を貪るハネナガフキバッタか、シュラフの傍で跳ねるマダラカマドウマか。
フライをこの渓用に巻いてきた大ぶりのテレストリアルに結び変え、回遊ルート上の緩い流れに乗せる。小さな着水音、あるいは水面からぶら下がったボリューミーなボディが気を惹いたのか、イワナは頭をフライに向けた。体をくねらせながら、真っすぐフライに近づいて行く。目前に迫っても真贋鑑定にかける素振りを見せない。鼻先が触れたかと思った瞬間、小さな水しぶきとともにフライが消えた。鋭く合わせると、曲がったロッドを介して命の躍動が伝わってくる。
緊迫したやり取りのあと、ネットに横たわったイワナは早い呼吸を繰り返しながら太陽の光を反射させていた。冷たい流れに手を浸し、柔らかい魚体にそっと触れる。側線に沿って散らばる淡いオレンジの斑点を色鮮やかに浮かび上がらせたイワナは、私を瑞々しく潤してくれた。

プールのイワナも早瀬のイワナも、とにかく元気でよく走る。

豪雪地帯で磨かれる色艶。保護色という一言では片づけられない美をまとっている。
遥々と連なる高山の稜線。その真逆である谷底の世界を徘徊する者になり気づけば30年を越えた。パックロッドと最小限の生活道具や食料を背負い、アプローチに数日を要する源流域で、昔から連綿と世代交代を繰り返している多様な在来のイワナたちを追うことに魅了された私にとって、飛騨山脈の最深部は特別な場所の一つだ。
自然の摂理に従って蛇行し、瀬と淵を交互に作り、やがて峡谷へと吸い込まれていく深山幽谷のこの川には、コンクリートやアプローチの登山道もない。都会の人工的なシステムから抜け出して、この惑星に古くからある生態系へと入っていく。桂の巨木やツキノワグマが命をつなぐ太古の森で、数日間とはいえ野生とともに生きていくという感覚がとても心地よい。
巨岩が作った段差を攀じ登り、次々に現れるポイントを釣り上がりながら、仲間たちと高度を上げていく。フライフィッシングを通じてイワナに逢うことは、私のなかに本来ある動物としての本能を取り戻す感覚に近いのかもしれない。現代社会から隔絶されるこの沢旅は、地形図の等高線から眼前の地形を紐解き、藪を漕ぎ、岩に取りつき、泳ぎ、自力で移動していく楽しさと手応えがある。時にヒリヒリするようなリスクと対峙したり不安が鎌首をもたげたりするが、体力や技術だけでなくその場を乗り切る創造性が要求される。そしてなによりも、美しく逞しいイワナの存在が、私の心を惹きつける。
渓に入り六日目の夜、カシオペア座の下で仲間たちと語りあった後、焚火の炎を見ながら酔った頭に、ふっと疑問がよぎった。50年後、100年後、イワナたちとの豊潤な時間を過ごすことのできる水辺は将来世代の釣り人たちに残されているのだろうか。
地球の平均気温は年々最高値を更新し続けており、国内有数の豪雪地帯であるこの渓も影響を免れられない。たくさんのイワナを健全に育む豊かな渓全体をパラダイスと呼ぶならば、降雪や融雪のパターンは明らかに狂いはじめ、パラダイスの安泰も危ぶまれる。その責任はイワナにはない。直接的でなくとも都市圏での生活を通じて大量の炭素を排出している私は、イワナに対して肩身が狭い思いだ。気候危機や生物多様性の喪失により破滅的で後戻りできない転換点がいつやってくるのかは誰にも分からない。脅威は消え去るどころか勢いを増し、その変化はあらゆる水辺で実感させられる。
もはや「どこにパラダイスはあるのか?」という問いよりも、「どうすればパラダイスを失わずに済むのか?」あるいは「どうすればパラダイスを取り戻せるのか?」という問いかけが正しいのかもしれない。

桂の巨木とタープの下で、雨をしのぐ。皮膚には蚊、胃袋にはアルコール。

弱点を見抜き、美しいムーブで遅滞なくこちら岸に渡渉して来たツキノワグマ。しばしこの渓にお邪魔させていただく旨、心でつぶやく。

生態系の豊かさを結晶化させたかのような生きもの「イワナ」。稀に魚の枠を超越したかのような個体にも逢える。
きらめく浅い水面下で横たわるイワナをなだめるように、指先で頭部から尾びれまでそっと撫でる。鱗の下の筋肉は緊張が解け、えらぶたを開閉させる呼吸のテンポは緩くなり、落ち着きを取り戻している。観念したようにも見えるのだが、こちらの心の中まで見通すような目は、多様な生きもので賑わうこの渓のように生きものとしての力強さで溢れている。緩い流れの中で私の手を離れたイワナが、まるでリリースされることが当然であるかのように悠々と尾びれを振って淵の深みへと帰っていく。イワナの後ろ姿を眺めている間、私は自然の最深部に触れ、それと同化し、充足していることに気がついた。時間と空間をともにした仲間の口角は上がったままだ。
イワナの生きる川は、その時代を生きる釣り人の心のありようを映しているのかもしれない。貪らず、倹しく、シンプルに生きることがイワナの教えだとしたら、私にはまだ学ぶべきことがある。これからも、源流の谷底を徘徊しイワナに逢いに行こうと思う。

イワナの棲む渓は輝かしく見える。