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山岳ガイドの限りなき駆け引き

マット・ハンセン  /  2021年1月18日  /  読み終えるまで19分  /  スノー

国際山岳ガイド連盟のガイドであり父親であるザハン・ビリモリアは、ビッグマウンテン・スキーという高リスクの環境で人を導く光のような存在だ。それは彼が豊富な知識をもつだけでなく、人を愛し、人と山を分かち合いたいと思うからだ。故郷のティトン山脈で高気圧の周期を楽しむザハン。ワイオミング州。Photo:Leslie Hittmeier

2018年2月中旬の曇ったある日、ザハン・ビリモリアは彼が知る唯一の方法で暗闇から抜け出した。それはグランド・ティトン国立公園の北部の遠隔の山でのスキーだった。その日「Z」の愛称で知られるエクサム・マウンテン・ガイドのザハンと同社の社長でガイドでもあるナット・パトリッジは、氷に覆われたジャクソン・レイクをシールをつけて5キロ横断し、山頂までの1,500メートルを登高。さらに2つ目の山頂まで尾根を300メートル登り、スキー滑走し、ふたたびシールをつけて原生地域を歩いて、コルター湾に駐車した車に戻った。それは多くの複雑なルートファインディングを要した22.4キロの行動だった。パウダーや日光にはあまりお目にかからず、広大な制約のない景観には人っ子ひとりいなかった。

通常、これはZが生き甲斐とする種のアルパインの冒険そのものだ。体を鍛え上げ、技術とリスク査定を身につけるために何年も努力して達成できた1日。そして彼と彼の妻が東海岸での仕事の約束と展望を犠牲にして、住居や健康保険、あるいは家族を養うのに十分な収入の保証もないまま小さな町で暮らす理由でもある。

しかしこのツアーはティトンでは最も強靭で知識豊かなスキーヤー兼クライマーの1人であるザハンを跪坐かせた。それ以前の5年間、彼は最も愛する友人でありスキーのパートナーでもある数人を失った。2010年には、親友のレイ・ランドンがサウス・ティトンでスキー中に雪崩により遭難した。その2年後、スティーブ・ロメオとクリス・オヌファーがジャクソン・レイクの西側にある遠隔の山でのスキー中に雪崩事故で死亡。2015年4月には、A. J.リンネルがアイダホ州チャリスの近くで飛行機事故で亡くなった。それから5月には、ザハン自身がこれもジャクソン・レイクの西側に位置するマウント・モランの北壁で山スキーの事故を経験した。シッケルと名付けられた険しい氷のクーロアールを登高中に3人の友人———それぞれが父親だった———が雪崩に巻き込まれ、そのうち2人が死亡。妻や子供たちとジャクソンのコミュニティに大きな傷を残した。その事故以来ザハンが高山に戻ったはじめて旅が、このパトリッジとのものだった。

山岳ガイドの限りなき駆け引き

ザハンの人生は、その均衡がつねに変化するなかで、十分なリスクと高すぎるリスクのあいだにある境界線をいく。簡単な答えはない。あるのは山への愛とそれを人にも楽しませたいという願いだけ。ワイオミング州ティトン山脈Photo:Fredrik Marmsater

シールを付けて登高しながら、彼とパトリッジはロメオとオヌファーの最後の休息の場を越えた。山頂からは、シッケルが見えた。Zの必死の努力にもかかわらず友人のルーク・リンチとステフェン・アダムソンが亡くなった場所だ。2002年のシャモニーへのスキー旅行で友人のハンス・サアリを失ったパトリッジは、その喪失のあと、何年も彼自身の悪魔と闘ってきた。

「ナットとのその日が終わりに近づくころ、僕らはイーグルズ・ネスト尾根に到達しようと、小さなクーロアールを登っていた」と42歳のザハンは、最近自宅からのインタビューで語った。「僕はこのクーロアールをツボ足で先導しながら恐怖に慄いていた。僕が描く未来は、山が崩壊して僕らを殺すというもの以外になかったからだ。尾根に登り詰めたとき、僕の膝は崩れ、世界は完全に粉々になった」

辛い経験ではあったが、それはZに前進する力を与えた。ガイドという職、妻と2人の子供、そしてこれまでになく重要なリスクの査定との関係を再調整する助けとなったのだ。

しかし答えのない疑問も残った――山への愛を中心に人生と絆を築き、その環境で多くの友人が亡くなるのを見てきた人間が、どうしたらそのような不確実な道を歩みつづけることができるのか。

山岳ガイドの限りなき駆け引き

ティトンでの行動中。山岳ガイドになりたいというザハンの夢は、彼の両親が伝説的なフランスのガイド、クリストフ・プロフィットを紹介した18歳のときにはじまる。それ以来、彼と妻のキムが所持品すべてを持ってティトンに引っ越す日まで、すべてのコンパスはジャクソンに向いていた。Photo:Fredrik Marmsater

2010年前後何年も、ザハンは週5日から7日「自分の腕をかじっていた」と言う。興奮でソワソワし、山に居たいという情熱を弛まなく追求していたのだ。シールを付け、登り、走ることは、ポール・ペツォルト、キム・シュミッツ、ビル・ブリッグス、アレックス・ロウ、ダグ・クームス、その他多数のアメリカの山岳ガイドの水準を設定してきた長い歴史で知られるコミュニティにおいて、ガイドとして彼の名を馳せるのに自然に役立ちました。

当時、ザハンと妻のキムはティトンの西側にある小さな遠隔の町、アイダホ州ドリッグスに住んでいた。彼らはボストンの近くにある小さな文化系大学ゴードン・カレッジの1年のときに出会った。インド人の両親とスイスで育ったザハンと、宣教師の両親とタンザニアで育ったキムには、多くの共通点があった。「私たちは初日の8時からの国際研究の最初の授業で知り合いました」とキムは言う。「緊張を解くために後ろの席の人と話すゲームで振りかえると、座っていたのがザハンでした」

彼はきちんとした身だしなみをしていた。「私たちはセーター・ベストを着てジェルで髪を整えてクラスに来るザハンをからかったものでした」とキムは言う。2人は一緒に週末にロッククライミングやスキーをして、アウトドアを探求した。

ザハンは23歳のとき、ボストンの北のエリート進学校のアウトドア・プログラムを先導した。しかしボストンは子供時代ずっと夢見てきた大きな山からは遠かった。高校卒業直後、ザハンの友人のほとんどはギリシャのパーティーに行ったが、それがお金の無駄遣いであることを知っていたザハンの両親は、その代わりに山に行ってはどうかと提案した。伝説的な山岳ガイドのクリストフ・プロフィットとのクライミング旅行となったこの決断は、山岳ガイドの人生を送るザハンの夢を固めた。しかしボストンでは、それは不可能だった。そして人生は短いことをザハンは理解していた。彼は何をすべきかが正確にわかっていた。それはティトンに移って、エクサムのガイドになることだった。

2003年、ザハンとキムは持ち物をまとめ、ドリッグスに引っ越した。短期的な計画はグランド・ターギー・リゾートで働いてスキー場のシーズンパスをもらい、できるだけたくさん滑ることだった。しかしそのころには、ザハンの身だしなみのよいイメージは払拭され、髪は長いドレッドロックスになっていた。ターギーはドレッドロックスは身だしなみの水準を満たさないという理由で彼の雇用を拒否した。

生計を立てるため、ザハンは3つの職を引き受けた。彼はZランゲージスクールをはじめ、旅行者やラテン系のコミュニティとのコミュニケーションの向上を願う建設労働者たちにスペイン語を教えた。言語の才能を生かし、ラーニングアカデミーでも働き、幼稚園から5年生までの子供のためのスペイン語のプログラム、そしてジャクソンではティトン・リタラシーで滞在許可書のない移民とスペイン語を母国語とする人たちに英語を教えた。キムは言う。ザハンはつねに子供に対する多大な愛を示してきたと。圧倒的に白人の多いコミュニティに住む有色人種として彼は、ラテン系の学生と深い一体感を感じた。子供に言語を教えたり、スキーバムに雪崩コースを教えたり、グランド・ティトンに大人をガイドしたり、彼の温かい思いやりはつねに彼を自然な先生にした。そしてある意味、このコミュニティ精神が彼を山に留めることとなった。なぜなら山頂に到達することが目的だとしても、彼にとって冒険はつねに人のためのものだったからだ。

2005年に息子のアルヨシャが生まれると、ザハンはランドネ競技で競いはじめ、3年後にはついに米国スキー・マウンテニアリング・チームのメンバーになった。シールとスキーの移行時間を短縮するため、彼は裏庭を往復する時間を測るよう、キムに頼んだ。夜中に。

「2秒早かったわ!」ヘッドランプをつけてキムは寒い夜空に叫んだ。「上出来よ!」

その間、彼はドリッグスを拠点とする店舗兼ガイドサービスのヨストマーク・バックカントリー・ツアーのガイドもはじめた。しかし家族が増えるにつれて、より安定した職が必要なことがわかった。彼はかいなく「エクサムのドアを叩き」つづけ、ジャクソン・ホール・マウンテン・リゾートのコミュニケーションの仕事に応募した。

2009年、リゾートが仕事をくれたのと同じ週に、エクサムは待望のガイドの仕事を提示した。彼はスキー場の上司に両立できないかと聞いた。彼女はノーと言ったが、彼はそれに納得せず、週7日働きはじめ、仕事に行くためにティトン峠を越え、往復112キロを毎日運転した。彼は仕事へ向かう途上、朝5時半にランドンと峠で落ち合い、ヘッドランプをつけて登り、仕事の前にできるだけたくさんの垂直距離をスキーした。もちろん、天気やコンディションを気遣いながらも、決行した。

山岳ガイドの限りなき駆け引き

親の特権。ザハンの子供アルヨシャとゲンマはスキー、クライミング、トレイルランニングをしながら父と一緒に山で過ごす。これまでも、おそらくこれからもずっと。Photo:Zahan Billimoria Collection

その前年、彼とキムは娘のゲンマをこの世に迎えた。フルタイムの父親、フルタイムの職、フルタイムの通勤、フルタイムのスキー。それは疲労困憊させる時間割だったが、ザハンは動機にあふれていた。彼は前進をつづけ、ガイドとしてのスタイルと顧客を確立し、家族の面倒を見ながらスキー業界との関係を築いていった。

その後まもなく、2010年2月21日の日曜日、ランドンがティトン南部で240メートルの崖を雪崩に流されて死亡した。ランドンとザハンはランニングを通して親しくなり、彼はザハンの山におけるパフォーマンス向上の可能性に巨大な影響を与えていた。アイダホ州で環境保護の仕事をしてきた静かで気取りのないランドンは、頂上で太陽に温められた岩を感じるためだけに夏の夕方、仕事のあとにグランド・ティトンを文字通り駆け上っていた。Zにとって、この習慣はランドンの非人間的な耐久力だけでなく、彼を特別なパートナーにしたランドンの些細かつ繊細な物事への気遣いを示していた。

ランドンが死んだとき、僕は『パウダー』誌の編集者で、ジャクソン・ホールでの年次のスキーのテスト、パウダー・ウィークの準備をしていた。その以前の数か月、僕はザハンと協力して100人ほどの参加者のためにこのイベントの段取りをしていた。ティトン・ビレッジでダイナフィットのツーリングブーツを履いてスキーをするスキー場の宣伝広告担当のZが僕よりも優れたスキーヤーであることに、僕はもちろん気づいていた。彼が現れなかった日曜日、僕はイライラした。それから雪崩のニュースを知った。Zが月曜日にデモ用テントにやって来たとき、彼の顔は苦悩で満ちていた。

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ときとして唯一必要なのは休憩。ボリビアのイリマニ・コーディエラ・レアルの6,438メートルを登高する途中で一息つくザハン。Photo:Fredrick Marmsater

いま事故を思い起こしながら、ザハンは言う。その日はランドンとスキーをしていなかったが、ランドンの死は彼がリスクの残酷な結末を経験したはじめてのことだったと。それまで、彼の山での経験はすべてリスクの肯定的な側にあった。彼は何度も撤退してきた。だが間違いを犯したときのこれほど痛烈な一撃を感じたことはなかった。

「少なくともルークとステフェンが死んだときと同じくらい真に自分自身に問いかけたのは、これがはじめてだった。これをつづける意義があるのか? こんな人生をまだ生きるのか?」と彼は語る。

深くうろたえたザハンは、事故について内省し、それが彼の個人、あるいはプロとしての目標に何を意味するのかについて時間をかけた。山で困難な、そしてしばしば微妙な決断を下す完全な能力のあるスキーヤーになるためには、スキー場での仕事をやがては辞め、通勤をせずに済むようにジャクソンに引っ越し、滑りたいビッグマウンテンの近くに住み、最終的にはガイドをすることだけに焦点を合わせねばならないと彼は決意した。完璧な山の生徒となるために、だ。

2年後、ロメオとオヌファーが亡くなった。ザハンは感情的に打ちのめされていたが、落ち着かないまま挑戦しつづけながら彼の道を歩みつづけた。2012年、ティトン・グラビティー・リサーチ(TGR)はアスリートと映画に焦点を合わせた雪崩コースの年次の講師としてザハンを雇った。TGRはジェレミー・ジョーンズの『Deeper, Further, Higher』シリーズを含む多数の映画の主任ガイドとして、彼を雇用した。このシリーズで、彼はティトン山塊ではその卓越した露出により最も困難で危険な滑走のひとつであるオター・ボーイでジョーンズをガイドした。

その冬、この象徴的な山で彼にガイドを希望する人で、彼の電話は鳴りっぱなしだった。「僕はシーズン中ずっとグランドのガイドをすることができた」と彼は言う。「最高だったね。ついにやったと思った。冬中毎日すごいルートをスキーして、金を稼げたんだ」

山岳ガイドの限りなき駆け引き

アンカーの設定や懸垂下降、そしてビレイがなければスキー日とはいえない。ティトンならではのお楽しみを味合うベン・ホイネスとザハン・ビリモリア。ワイオミング州グランド・ティトン国立公園 Photo:Fredrik Marmsater

「いまは、ちょっと考えさせてくれ、って感じだ」

音楽やブーツのサイズやアンチョビと同じで、リスクの許容度には個人差がある――誰かに(ザハンは心底愛している)レゲェを好きになることは強要できず、いかなるブーツを履かせることも、全員のサラダにアンチョビを入れることもできないのと同じように。こういったことは誰かを死に至らせることはないが、山にはそれができ、リスクの程度が高すぎるかどうかを決めることのできる唯一の人間は、それを請け負う人間だ。人びとは決断について不平を漏らすかもしれないし、家族、子供、個人の義務など、潜在的に危険だとみなされるあらゆる目標を追いかける際に秤にかけられるべき外的な要因もある。

そのバランスを見つけることは、ある人がどれだけを獲得するためにどれだけを犠牲にするつもりがあるのか、という疑問に落ち着く。だがリスクは複雑だ。それは人生を高揚させるが、それを一瞬で終わらせることもできる。答えは簡単ではない。しかしもはやそれを冒す価値がないと決めた人も少なくない。ジャクソンにだけでも、高山のリスクという人生をリゾートタウンの政治という慌ただしく変わりやすい世界に取り替えた2人の選出郡委員がいる。1990年代のティトンの数多くの巨大なラインのパイオニア、マーク・ニューコムと、ジャクソン・ホールのリフトでアクセスできるバックカントリーで死にかけた前TGRのプロデューサー、グレッグ・エプスティーンだ。

山岳ガイドの限りなき駆け引き

人生はグランド(壮大)だろう? 「ザ・パーク」を滑走するザハン・ビリモリア。ワイオミング州グランド・ティトン国立公園 Photo:Fredrik Marmsater

ザハンはティトンでスキーすることが客観的に危険だということを誰よりも知っている。高山にはランアウトはなく、何百メートルものただの垂直の露出だけ。コンディションを読み違え、ちょっとしたミスを犯すと、その結果はザハンがモランの事故で経験したように災難につながりかねない。「ビッグマウンテンでは些細なことが重大な事故を招くことがある。でもあらゆる警戒にもかかわらず、ときとしてただ不運なこともある」

雪崩の地形でスキーをすることの問題は、得られる唯一のフィードバックが僕らを殺しかねない種のものだということだ、と彼は言う。「すべての事故は、誰かがつねに状況を見誤ることによる。ときには自分自身を含めて」と。「でもどれだけ状況を見誤ったかは、必ずしもその結果と結びつかない。ちょっと見誤ることが致命的なこともあるし、大きな間違いを犯してもその罰を免れ、バーでその後ビールを飲みまくり、依然無知のままかもしれない」

夏のあいだ、僕はしばしば地元の自転車のトレイルでアルヨシャとゲンマと一緒の彼を見かける。冬には野生への愛を共有するために彼らをバックカントリースキーに連れて行く。アルヨシャはスキー場でジャンプ台を飛ぶのが好きだ。ゲンマのお気に入りはダンスと乗馬。山におけるリスクについて子供たちを教育しているのかと僕が聞いたとき、彼は首を振った。

「彼らはすでに知りすぎている」と彼は言う。「彼らはすでにあまりにも多くの通夜や葬式に行っている」

山岳ガイドの限りなき駆け引き

滑らせろ。裏庭のスノー・キング・マウンテンで滑走するザハンとアルヨシャ。ワイオミング州ジャクソン Photo:Fredrik Marmsater

いま彼は山での人との交流を野生の地形と同じように楽しむと言うが、ときとして過激な課題も追求しつづけている。それはつねに駆け引きだ――どうやって自分の限界を超えずにビッグマウンテンでの冒険を追求するか。 2019年春、僕はジャクソンでのある素晴らしい快晴の日、ジャクソンの険しい山スノー・キング・マウンテンをシールを付けて登るザハンに出会った。彼は旅を計画していると言い、携帯を取り出してボリビアにある6,400メートルの山の、縦に溝の走る巨大な壁の写真を見せてくれた。

数か月後、2週間で5つの山をスキーする遠征の一部として、彼と数人の仲間はこの壁を登り、滑ることに挑戦した。この山の頂上まであと30メートルもない場所で稲妻により撤退を余儀なくされたが、彼らは残りの4つを滑った。
僕は彼に尋ねた。なぜこれほどの経験をしながらも、ボリビアへ行き、辺鄙な場所で危険な山を滑ることを選ぶのかと。彼は僕を見つめ、最も単純で明確な説明をした。
「それが大好きだから」と。

山岳ガイドの限りなき駆け引き

高山病と腹痛に悩ませられながらも6,438メートルのイリマニ山のノーマルルートでスキーをするザハン・ビリモリア。ボリビア、コーディエラ・レアル Photo:Fredrik Marmsater

冬のあいだ1週間に2度、ザハンは2人の友達と午前5時半にスノー・キングの麓で落ち合う。ヘッドランプをつけ、ツボ足で、それからシールを付けて480メートルの垂直の山を速攻する。呼吸することもままならず、目が飛び出でるほど素早くハードに行動しながら。1時間後、家族の朝食を作るために帰宅する。ちょうどテニスボールを1,000回追いかけたあと、やっとリラックスできるゴールデン・リトリーバーのように。

それでも、彼は風に吹きさらされた稜線と複雑な地形を探求する深い欲望を抱く高山アルピニストであり、小さなスキー滑走だけでは満足できない。コロナ禍によって短くなった2019-20年の冬シーズン、ザハンはブリティッシュ・コロンビア、ワサッチ、イタリア、そしてオーストラリアでスキーした。ブリティッシュ・コロンビアでは、1週間に2回の電話が、条件を読み違えたときに起こり得る痛烈な現実に彼を呼び戻した。

「高山地形の人生を生き残るための簡単な答えはない」と彼は言う。「こだわらなければ、傾斜の緩いパウダーだけを滑るようになるかもしれない。そしてそれに満足できるならいい。だが僕のような人間の場合、いつも何か大きなもの、何か複雑なもの、何かさらに怖いものを求める。そういう場合はその方法を見つけることへの執着と、現実を受け入れることのバランスを見つけなければならない。強引に通すのではなく」

山岳ガイドの限りなき駆け引き

すべての原点であるアルプスにて。ザハンはスイスで育ち、父親の山への愛に感銘を受けた。フランス、シャモニーのグレイシャー・ロンドを滑る。Photo:Fredrik Marmsater

ブリティッシュ・コロンビア沿岸の山系で、彼は強引に通したことを認める。1週間の悪天候が彼のスキーの選択肢を閉じた。それがふたたび開いたとき、山ではなく、頭と感情にその台本を書かせてしまった、と彼は言う。この誤算はすんでのところで免れることができた。

「僕は過去15年間、山の環境について考えてきた」と彼は語る。「これらの事故は僕を促している。次の15年間を人間の環境について考えて過ごすようにと」

ブリティッシュ・コロンビア以来、彼がずっと考えつづけているのは、家族を持ちつつ山に行って答えを求めるスキーヤーとしての感情的および肉体的課題についてだ。いま、次の大きな冒険へと急ぐ代わりに、彼はアルヨシャのサッカーの試合に行ったり、ゲンマを乗馬に連れて行ったりしながら、数日間その冒険の感覚を味わっている。

そのあいだずっと彼に付き添ってきたキムは、彼を支えつづけている。

「彼はこれほど情熱的であり、これほど深い意味において彼の魂を豊かにさせる場所にいるので、リスクを冒さないでと彼に頼むことは、私は決してしません」と彼女は言う。「私は信じます。彼は自分が野生の環境に存在する、過ちを冒すことを完璧には免れることのない人間であることを知りながら、できるだけ安全でいられるように技術を磨き上げ、それを適用していると。でも彼は一緒に過ごす人たちに多くの喜びももたらします。それは強力な組み合わせです。だから私はそれを支えるのです」

ザハンはコミュニティを基盤とするハイパフォーマンス・アスリートのためのトレーニングのプラットフォームであるサムサラ・エクスペリエンスもローンチした。彼が開発したのは運動の科学と筋膜システムの研究に基づいた、山のアスリートの筋力と耐久力を向上させるためのトレーニングだ。このすべては彼が自分の「道場」に改装した、チリひとつない車庫で行われる。そこには130個のホールドのあるカスタムデザインのクライミングウォールがあり、ロープやその他の装備がフックからぶら下がっている。彼はインドの言葉で輪廻転生を意味する「サムサラ」を未来への「ハンドレール」と呼ぶ。それは高山での目標を追求する際のプレッシャーを軽減するための支えとなるものだからだ。

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この男から筋力トレーニングを受けたくない人はいるだろうか? ザハンのトレーニング・プラットフォームであるサムサラ・エクスペリエンスはハイパフォーマンスのアスリート向けで、運動技能の極印である「困難な瞬間を『簡単に見せる』」「アスレチック知能指数」に磨きをかけるためのもの。Photo:Zahan Billimoria Collection

昨冬、壁でのトレーニングの合間に、彼はいまも適切なバランスを探し求めていると語った。

「目標を達成するためには自分のチームと技術、そして適切性とスキー能力すべてが必要とされることを知りながら、僕は野生地と大きく露出した地形を求めていく。僕はまだそれを追求しているんだ」

「明日、僕らはグランドを滑りにいく。ちょっと時期尚早だと思うけど、探索しに行ってみようという心構えで山に入れば、撤退するのは簡単だ。でも時として幸運に恵まれることもある。そしてそんな時に絶好の場所にいれば、目標に挑める」

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