海が導いてくれる
奄美大島で生まれ育った碇山勇生は、コミュニティからドロップアウトするようにサーフィンを始めた。島を出てからの荒んだ生活を救ってくれたのもまた海だった。プロサーファーとなった勇生は、旅の生活をやめ、今では島を守る活動をしている。
透明度に驚かされる。太陽光に照らされた海底には、白い砂と珊瑚礁が混ざって広がっている。我々の他には誰もおらず、先にパドルアウトしていった碇山勇生がロングボードに乗ってクルーズしている。波は小さくとも形よく、振り返れば鬱蒼とした陸地が見え、海の青と森の緑、スカイブルーの諧調に頭の中が染められていく。私も波に乗ると、ようやく思考と動きが同調していった。この風景の只中に生きていれば、いつも心身をひとつにできるのかもしれない。
勇生は、奄美大島で唯一、太平洋と東シナ海に接する赤尾木という集落で生まれた。家から一番近い海岸であるビラビーチで、小学六年生の時にボディーボードで波乗りを始める。中学になって譲り受けたシングルフィンのサーフボードを友人3人で回し乗りし、もう1本ツインフィンをもらって、2本を3人で順番に乗るようになった。
「俺たちは、初代ビラボーイズ。初代で終わったけど」と笑うように、90年代半ば、ビラビーチには他にサーファーはいなかった。中学一年生までは野球部に所属しており、県大会に出場するほどの強豪校の部活動を辞めてサーフィンにのめり込むことは、ほとんどコミュニティからのドロップアウトを意味していたという。
「部員の数が9名だったせいもあるんですけど、何度も校長に呼び出されるくらい問題になったんですね。うちの親も周りから『お前のところの息子は野球部を潰す気か』って言われたくらい。だから、集落の中での重みやら世間体っていうものをその頃から強く感じていましたね」

青春時代。まだ10代の頃、仲間しかないビラビーチで。
島の強固な繋がりが生む独特のプレッシャーを受けつつ、それでも勇生はサーフィンを選んだ。自分の足で立つ覚悟を決めたと言ってもいい。中学生ながら大会の遠征費を稼ぐために車の整備工場やサトウキビ工場でアルバイトをし、それ以外の時間はサーフィンに明け暮れる生活を続けた。ビーチに秘密基地を作り、おやつのために盗んだ種芋でジャガイモを育て、サーフィンの合間に食べていた。いつも腹が減っていたが、ただただ波乗りに夢中だった。ビラビーチの隣にある手広海岸には、歳の離れた先輩たちがいて、強烈な洗礼を浴びながらもハードコアなサーファーに成長していく。17歳になる頃には日本代表に選ばれるほど頭角を表していたが、南アフリカのジェフリーズ・ベイで行われた国際大会には資金が足りずに参加できなかった。
「これだけ働いて、金を作って試合に出て、やっとここまできたのに結局ダメなのかって。必要な額の半分しか用意できなかったから。それで、代わりにハワイに行って、世界のレベルの高さを知ったんです。パイプ、サンセット、ワイメアでヤバすぎる人たちを見て、こんなに昼夜働いているような状況では、到底世界に追いつくわけがないって」
振り返れば、大きな挫折だったとわかる。勇生は次第にサーフィンから遠ざかり、島を出た。

ハワイ修行時代。世界に出て、自分の未熟さを痛感する。 写真:柳谷 大佑
そのまま大阪で働いていたら「ヤクザになっていたかもしれない」という荒んだ生活から立ち直ることができたのは、それでも、やっぱりサーフィンのおかげだった。とにかくもう一度、サーフィンがしたかった。プロを目指そうと島に戻り、伴侶となる日菜子さんと出会う。昼間はレンタカー会社で働き、漁師をしながらプロ資格を取得した。それが、23歳の時。得られたとしても賞金は微々たるもので、とても生活費には足りなかったが、日本中を巡る旅の生活は、勇生に広い視座をもたらした。

妻の日菜子さんと。共に営む〈CANNEN SURF〉にて。写真:土屋 尚幸
「プロになって、あちこちでお世話になりながら旅をしていたんで、それぞれの土地の思いやりを知りましたね。各地に仲間ができた。それから、自分の島がやっぱりいいところなんだって、行くほどに強く思った。砂浜がこんなにふかふかしてて、水も透き通って青々として。こんな場所は、他にないって知ったから。
当時、青森の六ヶ所村の問題がサーファーの間ですごく話題になっていて、自分も共感していたんですね。原発の近くでサーフィンした時には、海水があったかくて怖くなった。陸に上がると、島と変わらないような田舎道なのに高級な外車がたくさん走ってて、『なんだこの光景は』って。サーファーはいろんな社会問題に敏感になれるんだと思っていたら、まさか自分の足元で、開発の問題が起きていたんです」
2013年秋、地元の手広海岸の砂浜にコンクリートのブロックを敷き詰めて護岸工事をし、浜への階段を作る計画が起案されていた。行政と共に動いていた土建業者は同じ集落の人々で、社長の息子は、自身が途中でドロップアウトした野球部のキャプテンだった。
「じいちゃんばあちゃんも兄弟も、みんな知っている同じ村の人たちを相手にして、何億円もの仕事を止める。身内同然の人たちに反対するわけです。この
狭いコミュニティの中で、喧嘩をすれば三世代っちゅうんです。それだけは絶対に避けたかった」
けれど、自然のままの風景は残したい。情報を知ってから一週間足らずで1000筆以上の署名を集め、代表として町長に提出した。当時の活動は地元の奄美新聞にも掲載され、注目を集めた。

2013年、手広海岸の開発を止める嘆願署名を町長へ提出した。
「それで護岸工事は止まったんです。砂浜をコンクリートで埋める整備じゃなくて、老朽化したトイレとシャワーを建て替える計画を提案して受け入れてもらえた。自然を守りつつ、誰の仕事も奪わずに済んだんです」
駐車場の整備には、先端的な技術だったハニカム状の生分解性プラスチックを用いて、そこに砂利を入れて終わる舗装方法を奄美大島で初めて採用した。
この整備計画に対する運動は、自身が実行委員長となって、手広海岸でサーフィンの国際大会を開催していた経験も後押ししたという。島外からサーファーたちを呼んで経済効果をもたらしたことが自信となり、行政にも自分と同じ考え方を持つ仲間たちがいることがわかったからだ。何よりも大切なのは、対立せずに解決法を探すことだと学んだ。
「島の人はみんな、根っこでは自然がいいって思ってる。でも、生業が土建業しかなかったんですよ。ただ、それだけっちゃもん。こんなに小さな集落に、港をいくつも造るって、今から考えたらおかしい。でも、それが仕事になって、みんな子どもたちを食べさせて、教育を受けさせてきた。うちの親父だって土建業ですからね。息子は活動家って言われて、板挟みだったと思うけど(笑)。僕は住民をリスペクトしながら、ずっと説明をし続けているだけ。対立構造にならないようにするっちゅうことをやり続けてきただけですよ」
サーフィンのコンテストだけに集中していたら、手広海岸の護岸工事を止めることはできなかったかもしれない。勇生は、この活動を機にプロツアーを回ることを辞め、奄美大島の環境問題により深くコミットしていく。

手広ビーチの美しい波。海に入れば、浄化されるよう。写真:土屋 尚幸
採石場からの赤土の流出、大型クルーズ船の寄港計画など、自然豊かな奄美大島には、その分だけ開発に関わる問題が次々と立ち現れる。ただし、勇生は、開発すべてが不必要なものだとは考えていない。
現在も係争中の嘉徳海岸の護岸工事に関して言えば、台風で侵食のあった墓地の前には小さな護岸が必要かもしれない。なぜなら「島民にとってお墓はとても大切なもの」だから。ただし、大規模な工事に対しては、当然ながら反対の立場で、代わりに手広海岸の時に駐車場を整備したような落とし所を探すべきだと考えている。住民同士が対立することなく、自然が壊されることなく、それぞれの問題で最良な決着を探してくしかない。
「やっぱり愛が大事なんだと思うんです。郷土愛だったり、好きなサーフポイントに対する愛だったり。当たり前と思ってしまったら、多少失われても、なんとも思わない。でも愛があったら、大切にするから。これまで奄美大島は、開発すること、自然を壊すことで飯を食ってきたから、今度は取り除いたり、自然を残すことで飯が食えるようになったらいいなって思っているんです」
勇生のホームポイントであるビラビーチには、半分砂に埋まった防波堤がある。船が係留されることのない古びた防波堤を壊すことができたら、ビラビーチに人工物は一切なくなる。しかも公共事業として地元の企業に仕事が発注される。

ビラビーチに向かう勇生と長男の玄。古い防波堤が砂の動きを妨げている。写真:土屋 尚幸
勇生は仲間たちと一般社団法人「NEDI」を立ち上げ、島の未来を描く活動をしている。環境問題に強い弁護士、農業と福祉を連携させている経営者、それから自然環境のスペシャリストの友人と共に、次世代のために何ができるのかを考えている。既存の防波堤を取り除くなど、グリーンインフラの考え方をきちんと根回しをしながら議題に乗せることも、活動の一環という。

NEDIのメンバーとの作戦会議。得意分野の違う仲間がいる頼もしさ。写真:Pedro Gomes
「嘉徳で一軒ずつ話を聞いていた時に、村の人に泣きつかれたんですよ。どうやったら普通の生活に戻れるんだって。自然を守るためだったら生活を蔑ろにしていいのかって、そんなわけない。対話して、みんなで手を繋いだ方が楽だって、僕は手広海岸の時に知ったから。NEDIはそのための団体なんです。誰かと誰かが対立してしまう前に、きちんと話したい。反対のための団体ではなく、島の未来のためにどう動くべきかを考えたいんです」

海に潜って珊瑚礁の状況を確認する。陸地の開発によって赤土が流れ込むと珊瑚は呼吸ができなくなってしまう。写真:Pedro Gomes
海域公園地区策定のために生物多様性と藻場の調査をしたり、海岸線沿いの土地登記を調べて大規模開発が行われる予定地の周辺で住民から聞き取り調査をしたり。可能な限り島の自然環境を守りながら、経済を回すためにはどうすればいいのか。島の価値を理解した人々が訪れ、その価値に見合った対価を落としていくようなグランドデザインが必要で、それは観光業も農業も畜産業も、土建業においても同じ。
「僕は海が好きだから、子どもたちへの環境教育と海の安全を守ること、あとはオーシャンスポーツの普及。本当はこの3つだけやっていたいんです。でも、そのために、まずはやらなきゃいけないことがある」

島に暮らす先達から歴史を学び、知恵を授かり、環境を守るための仲間となってもらう。写真:Pedro Gomes
勇生と一緒に過ごしていると、通り過ぎる車から何度も声をかけられる。手を上げて挨拶を返し、笑い合いながら陽が暮れていく。
中学生でコミュニティからドロップアウトしてサーフィンを選んだ決断は、もしかしたら奄美の海からの導きだったのかもしれない。反対ではなく、繋がりを保ちながら、より良い未来を作るための運動は、この島に根を張って生きる人にしかできない。とても面倒で途方もないことのように思えるが、初代ビラボーイズは、それがどれほど尊く価値のあることか、知っている。

NEDIが主催するキッズサーフィンコンテスト『ナンため、ワンため、マガンため』より。ナンは祖父母。ワンはわたし、自分。マガンは、子どもたち、孫たちの三世代を意味している。写真:土屋 尚幸