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子どもたちを連れてポイント・ネモへ

ソミラ・サオ  /  2022年7月19日  /  読み終えるまで12分  /  コミュニティ

野生地で子どもを育てることを目指すなら、柔軟性が役に立つ。

高速で進む「自宅」のコンパニオンウェイに腰掛けて、南極海を眺めるソミラと娘のパール。

全ての写真:Somira Sao

私と夫のジェームズが子どもをもつと決めるやいなや、誰もが私たちに忠告した。それは生き方――少なくとも私たち流の生き方――に終止符を打つことだと。私が妊娠するとジェームズはピリピリと手に負えなくなったが、その理由は親になろうとしているからではなかった。彼は大きく開いた目で私を見つめ、旅することをやめないと誓わせた。私は同意した。探検をつづけることは、私のしたいことでもあったからだ。

それからの展開は、「旅すること」をやや超えるものだった。ほとんどの家族にとって、旅とは年に一度2〜3週間程度のものだろう。しかし私たちは長女のトーメンティナが生後1か月を迎えると、バイクパッキングの旅に出て、彼女の人生の最初の1年をテントで寝起きしながら、チリとアルゼンチンの未舗装路をティエラ・デル・フエゴからアタカマ砂漠まで自転車で巡って過ごした。その2年後に長男のライヴォが生まれるころには、トーメンティナを連れてすでに世界を一周しており、南米でのバン生活に移行していた。

バンにはカヌーとスポーツクライミング用のギアを積み、アルゼンチンの小さな山間の町エル・チャルテンとチリのプエルト・ナタレスのあいだを旅しながらクライミングと川下りに耽るという生活を送った。そのなかでも私たちの最高の川下りとなったのは、家族4人でアルゼンチンのサンタ・クルス川の約380キロメートルを、サポートなしでおおむね南パタゴニア氷原から大西洋までパドリングした経験だった。

家族をもつ前、ジェームズは南極海の航海のために造られた全長12メートルのカーボンファイバー製セールボートで単独周航を達成していた。2011年4月、パタゴニアでの3回目の夏が終わると、私たちはその船を復帰させ、メイン州ポートランドからフランスのシェルブールまで北大西洋を一緒に横断することに決めた。出港当時、トーメンティナとライヴォにセーリングの経験は1日もなかった。もし皆が悲惨な状態に陥ったら、長いカナダ沿岸のどこかに寄港し、そこからはジェームズがソロで航海をつづけられると思った。

私たちは2011年6月に出航し、高気圧の中心へと完璧な船旅を遂げた。航海中にウミガメが近くを浮遊するのを眺めたり、イルカやゴンドウクジラの訪問を受けたりしたのは、なんとも忘れられない思い出である。ライヴォは9か月でトーメンティナは3歳になろうとしていた。21日後に到着した私たちは、船内のギャレーを地元の市場で仕入れたフランスパンやワインなどの品でいっぱいにした。そしてセーリングとそれにまつわるライフスタイルが私たち家族にはとても向いていると実感し、それ以来船旅をつづけることになった。

2012年12月にニュージーランドで3人目の子、パールが生まれるころには、すでに北大西洋、赤道、南大西洋、南インド洋、グレートオーストラリア湾、タスマン海を横断していた。そのすべては平均10〜32日を費やしてノンストップで成功した航海だった。私たちの次の計画は、ニュージーランドのオークランドからフランスのロリアンへと60日間ノンストップで渡るという大航海であり、その時点で5人となった私たち家族にとって、単独航海のためにデザインされたこの船での旅はおそらく最後となるはずだった。

14日目に、到達不能極であるポイント・ネモを横断した。ネモは世界の海洋における最遠隔地点で、どの方角の陸地からも最も離れた場所にある、真の原生海域だ。単独航海でここに来たことのあるジェームズは、その聖地を家族と共有したかった。

それから1週間しないうちに、私たちは迫りくる982ヘクトパスカルの低気圧によって荒れる海をダウンウインドで72時間帆走することになった。荒れた海で速く滑らかなターンを刻みながらの帆走は驚くべきもので、それまで経験したなかでも最高の高緯度セーリングだった。21日目に低気圧は加速し、私たちの頭上を通過した。そのあとの穏やかな状態とともに訪れた安堵には、期待も混ざっていた。自己最高の東航時間を記録したばかりか、ポイント・ネモの次の指標となるホーン岬にさしかかっていたからだ。しかしそれを祝う前に、私たちの船は巨大波になぎ倒され、その結果マストが壊れてしまった。チリ海軍の救助によって無事港にたどり着けたものの、最終的にはチリのナバリノ島で想定外の足止めを食らうことになってしまった。

子どもたちを連れてポイント・ネモへ

左:「南極海の波は、私たちの背後で山のようにせり上がる荘厳な紺碧の壁でした」とソミラ・サオは回想する。「波は頂点に達すると太陽の光を透して青水晶のように輝き、また崩れては白い泡の下の暗い深みへと消えていきました。自然がこれほどまでに美しく、危うく、力強く、私の目に映ったことはありません」
右:巨大波に襲われた直後に被害を調べ、ロープ、リギング、セール、部品、破片などを回収するソミラの夫ジェームズ・バーウィック。

少女のころの私には、ホーン岬とその周辺諸島に対して思い描いていたイメージがあった。それは大型帆船に乗ったフィッツロイやダーウィンやマゼランなどの探検家たちによる歴史的な大航海であり、厳しい生の自然にさらされた荒凉とした風景だった。まさかその場所で救助されるとは、思ってもみなかった。

税関審査や海軍と港長への報告などの手続きが、慌ただしく行われていった。ジェームズはブームを応急リグとしてマストに仕立ててすぐにでも出発し、ビーグル水道の対岸にあるもっと大きなウシュアイアの商業港に行きたいと思っていた。けれどもチリ海軍は、新しいリグが設置できるまでは出港を許可してくれなかった。

ここで立ち往生して旅の勢いを失うのは壊滅的なことだった。再出発することがどれだけ困難か、南米最南端のこの港町には簡単に修理してくれる事業者がないこともわかっていた。しかし振りかえってみれば、海軍の判断は賢明だった。修理が完了していないのに家族を乗せて安全な港を離れる理由など、どこにもない。

子どもたちを連れてポイント・ネモへ

左:南極海のどこかで船の形をした自分の基地を守るライヴォ(3歳)。
右:ニュージーランド沖で最後に味わうことのできる、南太平洋の太陽と暖かい天候と穏やかなセーリングを満喫するジェームズ、ライヴォ(3歳)、トーメンティナ(5歳)、パール(1歳)。

ここに滞在するという現実をしぶしぶ受け入れると、時間は本当にゆっくりと流れはじめた。私たちはホーン岬と南極を行き来する観測船の大きなゴムボートの横につながれて、プエルト・ウィリアムズのビーグル水道沿いの入江にある、海軍のミカルヴィ・ヨットクラブに停泊した。

このように辺鄙で物流がややこしい場所で、とくに限られた予算で、ハイテクのマストに交換しようとするのは大変なことだった。この島には船舶修理事業者はなく、船具を販売する業者も、部品も、機械工場も、金物店らしきものすらなかった。取り付けの交換用ネジを見つけるのさえ困難なことがわかった。チリとアルゼンチン、果ては南米中で、私たちの船の設計条件を満たすマストを探したが無駄だった。すべての部品を南米以外から取りよせなければならないことを理解した。

私たちには自家保険の積み立てしかなく、この壮大な航海の準備に精神的にも経済的にも注力しすぎていた。新品のカーボン製ウィングマストは私たちの予算を完全にオーバーしていた。

私たちを助けるため、船舶業に関わる世界中の友人たちが時間と知識をくれた。もともとあったリギングとヘッドセールを使い、残されたマストの根元にアルミニウム製の筒を据えて代用する。そうすることで、当初のカーボンファイバー製の部品交換の3分の1の予算で修理できることが判明した。私たちに必要なのは、資金を工面することだけだった。

自営業であるため、仕事がないときのストレスレベルは相当なものだった。ときには負債を抱え、ふたたびセーリングができるのかと不安になることもあった。それでもコツコツと働きつづけ、やがて徐々に仕事も入るようになった。

船内の居住空間は窮屈だった。そのため再出港という目標にたどり着くまでの約3年間、森、川辺、湿原、泥炭沼、ビーグル水道の険しい海岸線などが、お気に入りの居住空間となっていった。最初の2年は車がなく、どんな状況でも徒歩で探索に出た。強風、雨、泥、雪、氷でも、未舗装路や馬道や散策道を縦横につないで歩きまわった。

子どもたちを連れてポイント・ネモへ

ナバリノ島での3年間の滞在中、子どもたちはさまざまなお気に入りの場所を見つけた。パール(4歳)とライヴォ(6歳)がルピナスの花畑でベリーを集めるこの場所もそのひとつ。

この島は小さく、子どもたちはすぐに自分たちでいろいろな場所へ行く道を開拓し、好きな遊び場に「ウィスキーボトルの森」や「ゴイサギの通り道」といった愛称をつけていった。私は子どもたちを自由にし、子どもたちのやり方で島を探索させた。一緒に遠出するときは自分たちで荷造りをさせ、持っていく食べ物や服、行き方や行き先さえも決めさせた。私が口を出したのは時間の計算や、帰宅するまでの体力の温存が必要な場合だけだった。

天候の変化が激しい土地で、子どもたちは身軽に旅することと状況に備えることを(ときには痛い思いをして)すぐに学んだ。長靴が水でいっぱいになったり、服が泥だらけになったり、お弁当を食べたあとのデイパックの空間に道中で見つけた宝物を詰めたり。誰かが遊びに夢中になりすぎて怪我をするまで、1日が終わることはなかった。

子どもたちを連れてポイント・ネモへ

左:ビーグル水道の岸で見つけた宝物を整理するパール(2歳)。
右:古いカバノハミナミブナの枝にとまったカオグロトキ。

自然のなかで、子どもたちは「自然主義者」へと成長した。鳥や木々や植物の名前を知りたがり、幾度となく地元の小さな図書館や博物館に足を運んでは図鑑や本で調べた。

すぐに子どもたちは、レンガブナとナンキョクブナとカバノハミナミブナの違いが簡単にわかるようになった。散歩中にはマゼランガン、マゼランキツツキ、カワセミ、ゴイサギ、カオグロトキ、コイミドリインコなどを目ざとく見つけては指差した。

あるとき、マーティンと名づけられたコイミドリインコを預かったことがあった。飼い主が南極にいるほんの少しのあいだのことだった。子どもたちはマーティンをとても可愛がっていたが、自由に林間を飛び交う野生のコイミドリインコたちがいかに生き生きとして健康であるかを見て、籠に閉じ込められているマーティンを気の毒に思うようになった。マーティンは一度船から逃げ出し、ジェームズがすんでのところで捕まえた。飼い主の元へ帰った最初の週、マーティンは籠から逃げ出し、そして戻って来なかった。

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氷の宝石を掲げるトーメンティナ(6歳)。チリ、ナバリノ島

到着したのは初秋で、それまで紅葉を見たことがなかった私たちは、ブナの木々が色を変えていく様子を観察した。そして秋が深まってくると、キノコや熟れたカラファテとチャウラの実を探した。

冬になると、私たちの船は雪と氷に囲まれて入江のなかで凍りつくこともあった。子どもたちはソリ遊びをしたり、雪像を作ったり、氷柱を食べたり、ミカルヴィのヨットクラブの薪ストーブで火を焚いたりした。冬には水面がまるで鏡のように静寂に包まれる日もあった。それは、保護された水路を冬の短い日照時間を利用してカヤックやカヌーでパドルするのに良い日だった。

春は魔法のようだった。森の木々が芽吹き、子どもたちは大喜びで泥だらけの道を駆けまわり、ガンの雛たちが水路のあちこちに顔を出すのを見てはしゃいだ。

夏は冒険旅行のピークとなる季節で、ミカルヴィにはプエルト・ウィリアムズを経由する船乗りたちが世界中からやって来て、さまざまな外国語が飛び交った。植物プランクトンを研究する科学者が私たちの船を教室がわりに、子どもたちに海洋生物学を教えたこともあった。

夏はイヌランの群生を見つけたり、コイミドリインコがノトロの枝に幸せそうに集ってその花を食べる姿を眺める時期でもあった。子どもたちは冷たい水にもひるまず、ときどきウキカ川やビーグル水道に飛び込んだ。私たちは島で育った新鮮な野菜や地元の温室のイチゴ、放し飼いの鶏の卵などを堪能した。

ミナミタラバガニの季節は7月にはじまり、その年によって異なるが、11月までつづくこともある。最盛期に地元の漁師が大漁のミナミタラバガニを測っては運び出す様子を子どもたちに見せ、商用漁業がその地域と海に与える影響を学ばせた。また博物館では真っ白に乾いた巨大なクジラの背骨のまわりで子どもたちを遊ばせ、この世界に存在する自分たちの小ささについて考えさせた。

最終的に船が直り、2017年の5月に世界周航の旅を終えた。ナバリノ島での滞在が子どもたちに与えた影響を実感するのには、さらに数年かかった。何千海里もの航海を重ね、いくつもの港を通り過ぎ、あの難破を経験した子どもたちは13歳、11歳、9歳になったが、いまでもあの「魔法」の森を懐かしんでいる。現在は6人になった子どもたちをもっと大きな船に乗せて私たち家族は航海をつづけているが、子どもたちはあのときのような自然に富んだ停泊地を積極的に探す。汚染され、死んだような海に囲まれた港に停泊したこともある彼らは、澄んだ水、きれいな空気、清浄な土、そして広々とした空間と自然を利用することを大切にしている。

私たちをあのような特別な島へと導くことになったマストを失ったときの一連の出来事を、私自身もよく思い出す。陸地を確認できたとき、あれほど感情的になったことはない。大自然のなかに隔離されて海を渡りつづける生活から、壊れた船とともに人びとやさまざまな音と匂いに囲まれた世界へと上陸したあの日。そのすべてはあまりにも非現実的で、目眩がするほど恐ろしい経験だった。ジェームズと私は精神的にも困憊したが、家族皆が安全に上陸できたことに心から安堵していた。そして私たちの船と仕事にまつわるそんな騒動の渦中でも、子どもたちは力強く成長した。

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