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ボディサーフィンの芸術、そのつかみどころのない美しさ

ロリー・パーカー  /  2022年4月8日  /  読み終えるまで5分  /  サーフィン

無価値なものと価値あるものがぶつかり合うところ

ボディサーフィンの魅力とは、システムがないこと。つまり何の仕組みもいらないことだ。写真:Jason Phillips

「ボディサーフィンというスポーツをやると多くの人が、詩人か馬鹿者あるいはその両方になる可能性がある」
―カレー・カークパトリック(「The Closest Thing to Being Born」スポーツ・イラストレイテッド(Sports Illustrated)誌1971年刊)

だれも金を稼いでいないのなら、どうだっていいじゃないか?

ボディサーフィンの世界は、金銭とは無縁だ。メディアにも縁がない。そこそこ素質のある子どものコーチを死ぬまでやめようとしない小遣い稼ぎに必死なオーストラリアの高齢者もいない。夢に破れることもなければ、キャリアを失うこともない。挫折した親の夢を肩代わりさせられる子どももいない。協賛企業も、ちやほやされるプロもいない。

ボディサーフィンに価値はない。仮に価値があるとしても、それは当事者のみ知り得ることで、その価値を売買しようとしても、それはできない。

ある家族が観光でオアフ島を訪れたとする。父親が偶然見つけた「ハワイの楽しみ方」というブログに「世界最高のボディサーファーに会いに行こう」と書かれていた。「無料」で、「エキサイティング」で、「勇猛果敢なスゴ技の連続」らしい。かなりのうねりがある。格安レンタカーのエアコンの効いた車内にいても、そのうねりのエネルギーを感じる。潮気を含んだ風は、波によって空中へ押し上げられる。水平線は霧で覆われ、時おりその切れ目から、コーデュロイのような波紋が見える。

ボディサーフィンの芸術、そのつかみどころのない美しさ

ボディサーフィンのレジェンド、「アンクル」ことラリー・ルッソは、パイプラインで「ここにしかないもの」を見つけた。ハワイ、オアフ島ノースショア。写真: Manuel Gonzalez

レンタカーからコンテスト会場までトボトボ歩いて着いた時の一家の落胆ぶりは無理もない。ワールドサーフリーグの開催期間中に、カメハメハ・ハイウェイを占拠していたサーカスのような賑わいはどこにもなく、観客席もカメラもない、もちろん追っかけもいない。美女が日光浴するわけもなく、体格の良い若者がはしゃいでいる姿もない。

その代わりに彼らが目にするのは、寄せ集めのようないくつかの小さな集団だ。あるグループは、ナウパカが豊かに茂る洞窟の中で突き出したパームの枝のわずかな木陰に集い、また別のグループは数か所に設けられたブランド広告のないワンタッチ式のテントに身を寄せ合っている。風変わりなヨーロピアン、正体不明の海男、ビキニパンツのあぶないヤツ、気の短い白髪男、広い肩幅と太いふくらはぎとさらに太い腹部を見せつける中年男、そして少数ながら勝気そうな女性達が、競技を待ちながら静かに話し込んでいる。聞き取りにくい耳障りで粗末な拡声器の音がアナウンスされている。ある者はストレッチし、ある者はうろうろとしている。

華やかさもなければ、効果的な編集のために空間を演出するような機材もない。そもそも、これをドキュメンタリーにして放送しようとする撮影班もいない。競技者はマヌケな小さい帽子をかぶり、そろってプカプカ浮いている。そして、時おり口元を上げ、まず顔を起こし、無我の境地へ腹から飛び込む。ボディサーファーたちは、仲間の特に巧みなライドに声援を送るが、観光客のその家族には、何がどうなっているのか全く理解ができない。すべてのアクションは海面下で起きている。背中をそらせ、手を引き込み、足首の力を抜く。腹部が滑走面になり、胸郭はレールと化して作用する。すべてはつかの間の興奮と直感的な反応、そしてアドレナリンのなせる無謀な所業だ。

その家族はすぐに死ぬほど退屈し、荷物をまとめて立ち去った。ここではなくシュノーケリングに行くべきだったと誰もが思うだろう。

ボディサーフィンの芸術、そのつかみどころのない美しさ

レア・ブラッシーは、乱流の下を泳ぎ、最も自然な姿の平穏を見いだす。写真: Laurent Masurel

ボディサーフィンは、顔面から落下することに単純なおもしさがある。イルカのまねをしている海好き以外の何者でもない。慣れや苦悩、倦怠感にとらわれ、ソファに寝そべる日々と決別するための良き方法でもある。身体的には、決まって関節がはずれ、背中をひねり、足を引きずり救助を求めるというおまけが付いてくる。

ボディサーフィンには、どれほど人気が高まったとしても決して失われることのない本質的な純粋さが内在している。身体が海から離れずに海と一体になれることができる唯一の波乗りだからだ。有害な化学物質でできた板は必要ない。商標を表示する場所もないし、アクセサリーで儲ける機会もほとんどない。それは本質的にマゾヒスティックであり、風が強くクローズアウトした浅い波を見て「さあ、お遊びの時間だ」と思うような、ひねくれた心の持ち主として永遠に祝福されるかあるいは罵倒されるか、どちらかだ。

ボディサーフィンの芸術、そのつかみどころのない美しさ

必要なものは自分自身と海だけ。オーストラリア、ニューサウスウェールズ州の中央海岸で、ベリンダ・バグスは変化のあるリーフブレークへ向かう。写真:Jarrah Lynch

ボディサーフィンはインパクトがかなり強い趣味だが、大勢の人の反応は薄い。鼻に海水は入るし、髪や耳は砂にまみれるが、心は喜びで満たされる。ただし、決してクールな人、リッチな人、普通の人にはなれない。

それはとてもありがたいことだ。

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