コンテンツに移動

リムゥへの帰還

アラン・サラザー  /  2023年6月23日  /  読み終えるまで8分  /  ワークウェア

50年の歳月をかけた大航海。

星明かりから日の出へ。夜明けの子午線を渡って海原を航行するトモルの「ダークウォーター・パドラー」たち。Photo:Robert Schwemmer

語り:アラン・サラザー(プチュック・ヤイアック)
文:ジェフ・マッケルロイ

10時間にもおよぶパドリングのあと、私たちはサンタクルーズ島の着岸予定地までまだ3km以上も沖にいた。サンタクルーズ島はカリフォルニア沿岸部からおよそ48km離れたところにある。トモルにはかなりの水が溜まっていて、いくら漕いでも一向に進まない状態が30分はつづいた。力のかぎり海流に逆らい、パドルを深く差し込んで漕がないと、前に進まなかった。私の先祖たちはいかに素晴らしい船乗りだったかと、そのときはっきり理解した。祖先チュマッシュ族のように、強く、勇敢で、知識豊かであること。それがいま、私たちが目指して力を合わせていることだ。

私たちは1万3千年以上前からつづく海洋文化である。領域はカリフォルニア州モロ・ベイ周辺のセントラルコーストから、南のマリブまで広がる。270kmを超える素晴らしい海岸線、そしてその沖に浮かぶチャンネル諸島――アナカパ島、サンタクルーズ島、サンタローザ島、サンミゲル島――は、すべてチュマッシュ族の領域だ。そして私たちは何千年ものあいだカヌー建造の達人でもあり、その評判は板張りの航海用船「トモル」で知られている。

私は海で育ったわけではない。1951年にカリフォルニア州ロサンゼルス郡にあるサンフェルナンドの街で生まれた私が、祖先の故郷である沿岸部にたどり着くころには、人生のほとんどが過ぎていた。私の父はアメリカ海兵隊員で、タタヴィアム族とチュマッシュ族の血を継いでいた。父は、私と3人の兄弟がインディアン(当時使われていた用語)としてのアイデンティティーを守ることをかたくなに望み、私たちの出生証明書にも「インディアン」と記録されることを主張した。やがてより内陸のセントラルバレーに移ると、そこでは私の両親は数少ない異人種夫婦だった。6歳になったころ、誰かが自分のことをじろじろと見ているのは、私の肌の色が違うからだと気づくようになった。

1957年の夏のこと、兄と私は髪をモヒカン刈りにしていいかと父に尋ねた。なぜならそれが私たちがテレビで見た唯一の勇敢なインディアン戦士だったからだ。メイン・ストリートの床屋の前で撮ったモヒカン刈りのサラザー兄弟の写真はいまでも持っている。それにはどこかポップな雰囲気も漂っていた。そして父はこう言った。「ケンカを売ったりするなよ。でも、売られたケンカからは逃げるな。自分が信じることのためには闘うんだ」私はそうやって育てられた。それが先住民族の誇りだと言ってもいい。

10代のころベイカーズフィールドに移り住んだ私は、そこで成人としてほとんどの人生を過ごすことになる。結婚して、家族を養うために左官や少年院の刑務官として働いたのもこの街だ。私は映画『怒りの葡萄』からそのまま出てきたような人たちとともに育った。「ダストボウル」時代にオクラホマからカリフォルニアへの移住を余儀なくされた人たちの多くがべイカーズフィールドに落ち着いたからだ。このときの移民には、チョクトー族、チェロキー族、チカソー族を祖先とする人たちも含まれていた。そして30代を迎えると、私はより積極的に先住民族の人たちと関わりをもつようになり、インディアン・ヘルス・サービスを含む複数の先住民族団体に携わった。

休暇を取っての家族旅行は、ベイカーズフィールドの暑さから逃れてベンチュラの海沿いで過ごすことが恒例だった。そこまでの毎回のドライブで、州間高速道路5号線(I-5)を州道126号線まで降りてくると、ちょうどシックス・フラッグス・マジック・マウンテン遊園地の脇あたりで、私はいつも肝の奥底に何か不思議なものを感じていた。それを説明づけることがようやくできたのは20年が経ち、人類学者ジョン・ジョンソン博士とともに自分の家系について調べはじめたときだった。博士はサンフェルナンド伝道院からの記録を取り寄せ、私の祖先が2つの村に属していたことを突き止めた。チュマッシュ族のタプ村(シミバレーのタポキャニオン)と、タタヴィアム族のチュガヤンガ村(I-5と126号線のインターチェンジにあるキャスティーク)である。あのとき腹のなかでじわじわと沸き立っていたのは、私が故郷へ帰るときの感覚だったのだ。

リムゥへの帰還

チュマッシュ(Tšumaš)という語は貝殻のビーズでできた貨幣(’ałtšum)から派生したもので、「貝貨を作る人びとの場所」を意味するミチュマシュ(Mitšumaš)、つまり現在のサンタクルーズ島の住民のことを指す。今日のチュマッシュ族の人びとはこの島をリムゥ(Limuw)と呼び、アナカパ島はアニャパ(ʔanyapax)、サンタローザ島はウィマ(Wima)、サンミゲル島はトゥカン(Tuqan)として知られている。Photo:GaryKavanagh

およそ1万年前に最後の氷河期が終わると、溶解する氷河が海水を温めて海面が約120m上昇し、海岸線はその以前より何kmも内陸にまで後退した。現在ベンチュラやサンタバーバラから見えるチャンネル諸島は、かつてはサンタロサエと呼ばれる1つの大きな島で、海面上昇以前はサンタロサエ島は陸から6kmほどしか離れておらず、現在のカヤックに近い小型の葦舟でも簡単に渡ることができたようだ。しかし海面上昇後はその距離が開き、海流も強くなった。チュマッシュ族の長老たち、歴史学者や人類学者、そしてカヌーに詳しい人たちの意見に基づくと、チュマッシュ族は7千年ほど前からより大きな板張りの船を造りはじめた、というのが私の理論だ。本土の村から島へと人びとを運び、サメやメカジキなどの大物を捕獲するため、より大きく強い船体が必要になったのだろう。

トモル建造者(のちにスペイン人によって「トモレロ」と呼ばれるようになる)は非常に高度な技術をもった職人で、部族のなかでも尊敬される地位にあった。彼らは大嵐のあとに岸に打ち上げる大きな流木を集め、カリフォルニア北部やオレゴンから漂流してくる丈夫なレッドウッドを好んだ。次に、鯨の肋骨から削り出した楔を叩き石で丸太に打ち込んで割る。そのように丸太を割ることで現在の2×6や2×8の木材のような長い板を作ることができ、それをサメの皮でやすりがけしてから2.5〜6mの長さに切っていった。

たいていは最も長く厚い板を底に使い、短い板は舷となる。トモル建造者は「ヨップ」と呼ばれる固形のタール、またはアスファルトを松ヤニと溶かし混ぜた接着剤のようなのもので板を貼り合わせていく。タールは今日でも南カルフォルニア一帯で自然に滲み出す物質だ。タールが乾いたら、アメリカアサなどの植物繊維から作られたひもで板を縛り合わせる。1艇のトモルを作るのに、途方もない量のひもが必要だったという。

1769年以降、カトリックの宣教活動によってチュマッシュ族の人びとは奴隷化され、伝道施設での労働を強いられた。若いチュマッシュの男女は鍛冶屋や牧場使用人、コックやメイドにさせられ、同様に私たちの生態系に関する伝統的な知恵、そしてトモルに関する知識も、世代を越えて継承されることはなくなってしまった。1850年代が過ぎるころには、チュマッシュ族は板張りのトモルを造るのをやめてしまっていた。

リムゥへの帰還

〔左〕チュマッシュの清めの儀式において神聖な要素であるペリカンの羽根(tsqap’ihew)、セージ(xapšǝx)、そしてアワビ(qašǝ)。Photo:TimDavis

〔右〕「祈りや捧げ物は、トモルの航海には毎回欠かせない」とアラン・サラザー。「すべてのものを清めることが重要なんだ、パドルでさえもね」Photo:TimDavis

1995年、離婚から数年を経た私は、仕事とチュマッシュ族の人びととのつながりを求めてベンチュラに引っ越すことを決めた。その1年後、サンタバーバラの自然史博物館と海事博物館の職員から、3艇のトモルを建造するための助成金プロジェクトを指揮しないかともちかけられた。私は発足したばかりの〈チュマッシュ・マリタイム・アソシエーション〉の創立メンバーとして、最初の数回のミーティングでこの博物館の提案を取り上げ、共同でこのプロジェクトを進めることを決定した。私はチュマッシュのコミュニティに属する人びと、サンタバーバラ地域の祖先の土地で育ったその多くの人に敬意を払い、プロジェクトの指揮をとるのではなく、参加するという形を選んだ。

1997年、私はメカジキを意味する「エリエッウン(‘Elye’wun)」という名のトモルを造るため、チュマッシュ族とその支援者で構成された小団体に参加した。そして名誉なことに、エリエッウンをサンタバーバラ港に進水させる最初のクルーの一員となることができた。それから4年間、私たちはフラットウォーターや沿岸でパドリングの訓練に励み、3mのパドルでチーム一丸となって漕ぐことや、船を安定させるためにどれだけの土嚢を船底に載せるのかなどを学んだ。2001年9月、ようやく私たちはチャンネル・アイランズ港からチュマッシュ族が「リムゥ」と呼ぶサンタクルーズ島への海峡を横断する準備ができた。

2001年9月8日、午前3時45分に出航。私は船長と3人の漕ぎ手たちを背後に、トモルの先頭に座った。チュマッシュの先祖たちは何千回も経験したことなのだろうが、私たちが暗闇のなかに漕ぎ出すのはこれがはじめてのことだった。星空の下でのパドリングは私たちにとって精神的な覚醒であり、あの早朝の経験から最初のクルーのことを「ダークウォーター・パドラー」と呼ぶようになった。

その日、海域を横断するのに11時間かかった。海流と向かい風は私たちが想像していたよりも強く、トモルには25cmもの水が溜まっていた。私たちは漕ぎ手1人と土嚢6袋をサポート船に移すことを決断した。エリエッウンは軽くなり、最後の数kmは安全に進むことができた。その夕方、友人や家族や支援者たちに迎えられ、祖先の故郷リムゥで、150年以上ぶりのチュマッシュの力による横断を祝った。

リムゥへの帰還

〔左〕「この12年間、『ムプタミ(古代の夢)』と名づけられたサンタイネズ・チュマッシュ族のトモルを漕いできた」と語るサラザー。「太陽、流星群、星座、動物の精霊などを称え、アワビ貝の象嵌をトモルの耳に施すことが慣例となっている」Photo:Tim Davis

〔右〕「私たちのトモルは非常に底が深く、上板から床まで60cm以上ある」とサラザー。「左右の水面に届く十分な高さを保つためには、ひざまずいてパドリングしなければならない。パドルは3mを超えるダブルブレードのもの。トモルを漕ぐためには、多大な腕力とバランスと持久力が必要だ」Photo:Tim Davis

Patagonia Ironclad Guarantee Icon

パタゴニアは製品を保証しています。

製品保証を見る
Patagonia Ironclad Guarantee Icon

私たちはみずからの影響に責任をもちます。

フットプリントを見る
Patagonia Ironclad Guarantee Icon

私たちは草の根活動を支援します。

アクティビズムを見る
Patagonia Ironclad Guarantee Icon

私たちはギアを生かしつづけます。

Worn Wearを見る
Patagonia Ironclad Guarantee Icon

私たちは利益を地球に還元します。

イヴォンの手紙を見る
よく使われる検索語