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コチャモよ永遠に

ダニエル・シーリガー & ロドリゴ・コンデザ  /  2025年6月3日  /  読み終えるまで14分  /  クライミング, カルチャー, スポーツ, ハイク, 環境

チリのコチャモ渓谷を開発とオーバーツーリズムから保護する活動の舞台裏

チリのコチャモ渓谷がしばしばヨセミテと比較されるのは、理解しがたいことではない。だが、地元コミュニティはこの特別な場所とアンデスコンドルをはじめとする固有の動植物を保護するには何が最善であるか、別の考えを持っている。写真:ドリュー・スミス

トリニダード、約3,000フィートの花こう岩の岩壁の第9ピッチ、手をねじ込める割れ目を見つけることに集中し、体の真下の小さな岩棚に痛む足先をのせる。適所のカムにロープを通し、もう一方の手を自由にして、体の向きを変え、極度の集中をわずかに緩め、10フィートの翼を広げて静かに旋回中の滑空するコンドルを見やる。

眼下には、ラフンタと呼ばれる川の本流とその一帯が見える。コチャモ渓谷のアウトドア・レクリエーションの基地だ。この南側の谷は、チリ西部の太平洋の入り江から、東はアルゼンチンとの国境にほぼ接する。下界には果てしない熱帯雨林が一面に広がり、その先には点在する牧草地の間を縫って川が流れる。伐採道路、水力発電所、富裕層向け観光投資、不動産開発に反対する20年にわたる地元の抵抗運動のおかげで、この場所は1900年代初め以降、比較的変化のないままである。

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ミゲル・ベームは、アルコアイリスの3,100フィート、19ピッチの圧倒的な迫力のルートに食らいつく。写真:カタリナ・クラロ

1900年代、ガイドブック『ロンリープラネット』が初めてコチャモに「南米のヨセミテ」という異名を与えた。大岩壁、マーセド川に似た河川、緑の牧草地、無数の滝、息をのむような自然など、その類似性は見過ごせない。しかし、コチャモが似ているのは、むしろ1890年の、観光客向けに道路、ホテル、ショッピングセンターが競って建設される前のヨセミテだ。この場所を守る継続的な闘いの中で、この比較は数十年にわたって復唱されてきたが、コチャモを愛する我々は、実際のところ、コチャモを南米のヨセミテにしないために闘っている。

「この渓谷を『ヨセミテのようだ』と表現することは正しい」友人で、コチャモ地域に住み、2007年以降その保護のために奮闘するロドリゴ・コンデザは言う。「あそこは終わった。ここでは類似点より違いのほうが輝いている。うっそうとした熱帯雨林、車の騒音はゼロ、チリにはアリエロ(馬方)文化があり、‘入場料’は泥道を5時間歩くこと、だから基地であるラフンタには駐車スペースが要らない」
問題は、共通であってほしい部分をどうやって守るかだ。

今登っているのは、プチェギンというコチャモ渓谷南部のエリアで、私有地だ。2022年、ここはクリスティーズのオークションで売却される予定だった。このエリアには、コチャモ渓谷の登攀壁と登山道が集中しており、それらは約33万エーカーの区域にわたって山々を縫うように設けられている。氷河で覆われたこれらの花こう岩の頂を、その森を、河川を、どうやって最高入札者に売り飛ばせというのか。しかしもし、我々がその最高入札者になれたとしたら、どうだろう。

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アンフィテアトロにて、ヴィアネ・ルモーとJBベティスは、彼らの新ルートであるレガリト・デ・ラ・マニャーナのクラックを1日かけて整備した後、その出来ばえを振り返る。写真:ネルソン・クライン

初めて写真でトリニダードを見たのは、1999年のことだ。当時、チリ南部で暮らす若きクライマーだった私は、あまり知られていないその花こう岩の壁を見て、どこか道標のない、国立公園でないところへ行きたいと思った。6か月後、約30キロの荷物を背負って5時間ハイクし、かつてそこを取り囲む岩壁に畏敬の念を覚えたラフンタの牧草地に到着した。

その翌日、ラフンタからトリニダードの基部へ、険しい2時間の山道を歩いていると、ホセ ‘シキーニョ’ ハートマンという背の高い笑顔のブラジル人に出会った。1997年に、イギリス人クライマーのクリスピン・ウォディが、厚い茂みを何日も藪漕ぎして、初めてアクセス道と大岩壁のルートを築いた。現在では、シキーニョとそのチームがそれらの登山道をさらに延長し、浴室を設営し、そしてこの渓谷初の完全フリールートに挑みながら、精緻なトポを作成している。

続く1週間、シキーニョと一緒にキャンプしながら、私は状況を理解し始めた。単に1人で難しいルートを繰り返しているよりも、ほかの人のために登山道を作るシキーニョを手伝うことに満足感を見いだしていた。真にその場の一員になるとは、ただ見て、登って、ソーシャルメディアに写真を投稿することではなかったのだ。次世代のためにそこを良くしようと働くことは、永続的な満足感を残した。

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築80年の家屋のデッキで、「キャンピング・ラフンタ」のキャンプ管理人が、同業者の「キャンピング・ヴィスタ・エルモサ」のキャンプ管理人と近隣住民を訪問する。左から右へ:共著者のダニエル・シーリガー、エリック・ブレーク、パウリナ・バスコペ、シルヴィーナ・ヴェルダン。写真:ゼノン・シーリガー

クライマーが初登頂を声高に自慢することには慣れきっていた。今日、クライマーはシキーニョのほぼ非公開のルートを、このエリアのクラシックルートと見なしている。ある雨の日、私は彼が紙面にルートの詳細を描き、それを丁寧に折りたたんで、次の人が彼のトポを使えるようにガラス瓶に入れて残すのを見た。

2004年、当時妊娠中だった妻のシルヴィーナ・ヴェルダンと私は、この谷に土地を購入し、引っ越した。私たちはその5年前にアルゼンチンのメンドーザでクライミングをしていた時に出会い、そして一緒に川べりの5エーカーの牧草地に、このエリア初のキャンプサイト「キャンピング・ラフンタ」をオープンした。

最初は誰も来ないことに絶望した。料金は1泊2.75ドルにしたが、初シーズンの来客は30人以下だった。この終わりなきプロジェクトの合間にクライミングの機会を模索した。「クライマーかい?登りたいのかい?」到着したどの客にも尋ねた。

私たちは働いて、学んだ。荷馬に蹄鉄を付け、それらを率いて、176ポンドの荷物をクライミングとハイキングの基地であるラフンタのキャンプ場へ運搬するのを手伝い、8マイルの山道を歩いた。その時に私たちは自生のカネロプラントの葉が腹痛を和らげ、抗菌性の洗浄剤になること、隣人が家畜の羊毛で編んだポンチョにはGORE-TEXジャケットもかなわないこと、薪割りには典型的な筋肉男のスウィングではなく、素早くかつ正確でエネルギー効率のよいチョップが必要であることを学んだ。2005年には息子のゼンが誕生し、彼がティーンエイジャーになるまで、冬を除く全シーズンを私達は谷で過ごした。

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コチャモ渓谷には幹線道路がないため、徒歩で移動するのでなければ、現地のアリエロと共に馬で移動する。写真:ドリュー・スミス

もう1つのヨセミテを思ってクライマーは目を輝かせるが、実際ここでの滞在は国立公園にいるのとは全く違っていた。ペルーコ・サンドヴァルは、コチャモで家族と暮らす地元のアリエロだが、彼がキャンプ場をうろついていた母牛と子牛を引き離すのを、私はそんなクライマーの1人と一緒に手伝った。翌日、そのクライマーは搾乳したてのミルクを入れたカフェコンレチェを飲みながら、「おいおい、これじゃあキャンプフォーならぬ、キャンプファームだ!」と言った。

ゼンは成長した。木に登り、川で泳ぎ、躊躇なく客のひざに這い上がり、本を読んでとせがんだ。地元のアリエロの馬に因んで「チュペテ」と名付けた赤毛の木馬を抱えて、大草原を裸足で走り回った。青あざのできた顔で、マキベリーの樹から「オラー、ハロー」と叫んでは、疲れたバックパッカーを、何語を話すかも知らずに出迎えていた。

プロジェクト開始から4年後、30歳前後のチリ人の隣人ロドリゴ・コンデザに会った。きちんと整えられたひげ、明瞭な会話、彼の短くてハイピッチな「ハハハ」は、理由が分からない時でさえ、私を笑わせた。

私たちは皆、この谷では比較的新顔で、世界の憂鬱な問題から遠く離れた楽園に隔離されていた。あるいは、少なくともそう思っていた。2008年、大規模な水力発電プロジェクトが渓谷を脅かし、私達はそれを阻止するための闘争へ追い込まれた。7つのダム、巨大なパイプ、発電所、送電線。ロドリゴ、それぞれの配偶者、地元民のサンドヴァル一家と共に、人生の新たな局面に突入した。我々は土地の擁護者になり、この最初の闘いが、今日に続く大規模な保護運動の幕開けだった。

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チリとアルゼンチンの国境に沿ってのびるプチェギンは、保護区に囲まれ、2つの国立公園と境界を共有する。プチェギンの購入によって、約400万エーカーの連続的な回廊を野生生物の生息地にできるだろう。イラスト:ジェレミー・コリンズ

「実はどこをどう扱ってよいか分からなかった」とロドリゴは振り返る。「でも、挑戦すべきであるとは分かっていた」やがて知れば知るほど、我々はこれまで多くを与えてくれたこの場所を保護する重要性に目覚めていった。

続く数か月間、できるかぎり多くの人々に、まだあまり知られていなかったコチャモ渓谷を紹介した。闘いは、政治家、政治団体、観光局長、自治会、コミュニティグループとの50件の個別会合にわたって繰り広げられた。毎回プレゼンの最後には、水の涸れたコチャモのスライドを見せた。そこには登山道の分岐点が描かれ、道標には「どちらの道を選ぶ?観光それとも水力発電?ヨセミテそれともヘッチヘッチー渓谷?」と記されていた。最悪の事態に備えて、ロドリゴと私は協力して、ダム候補地を封鎖する最終手段として、6つの鉱区をそれぞれ1,200ドルで購入した。

幸運にも、国を説得するキャンペーンは成功した。2009年、チリ大統領は、流域をチリ最初の保護水源とし、この川を水力発電所から保護し、現在のプロジェクトを中断すると布告した。それは同様の脅威に対する防衛に尽力する地元の運動に火を付けた。ロドリゴと私は「銅山成金になる未来を失ってもいいさ」とジョークを言った。

「その布告が現実だと知った時、泣いた」とロドリゴは言う。

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ラフンタで、ロビー・フィリップスとイアン・クーパーは、地面から900フィート以上登ったところにあるドリューズポーチ(撮影者ドリュー・スミスが発見し、整備した)にいる。写真:ドリュー・スミス

しかし、土地の擁護者という新たな役割には決して終わりがないことをすぐ学んだ。内部では、2016年の観光ブームがゴミ、埋められていない排泄物、不法な焚火やキャンプ、ドラッグの使用、深刻な事故の急増をもたらしていた。ペルーコの娘、タチアナ・サンドヴァルは、新結成されたコチャモ渓谷協会(Organización Valle Cochamó:OVC)を率いて、観光客を管理し、啓蒙するために、錆びた輸送コンテナの中にビジターセンターを開設した。対外的には、我々は開発に反対し、闘いを続けていた。最近になってやっと、投資家の提案する79区画の分譲に反対する大規模キャンペーンに成功し、どうにか2万7,182エーカーの区域を、渓谷の北半分に沿った自然保護区として宣言させることができた。

渓谷にとって最新の脅威が、実は古くから存在していたことも、たぶん驚くべきではなかったのだ。富豪の投資家ロベルト・ハーゲマンは、2007年以降、密かにこのエリアで数々の土地や水利権を購入しており、自身が開発側の立場であることを隠そうとはしなかった。15年にわたって、ハーゲマンはメディテラネオ水力発電プロジェクトや数々のオーバーツーリズムを招く観光開発プロジェクトを提案した。ロドリゴ、タチアナ、現地法人プエロ・パタゴニア、OVC、そしてコミュニティは、あらゆる局面でハーゲマンと闘った。

2022年6月、ハーゲマンはプチェギンの地所と私達のキャンプ場のすぐ隣の124エーカーを手に入れた。さらに彼は道路、ホテル、そして大金を落とす常連のためにゴンドラまで提案した。しかし、我々の数年にわたる持続的な反対運動が報われたのか、ハーゲマンは結局、プチェギンを海外の高級不動産や海辺の豪邸と共に、1億5,000万ドルでクリスティーズの競売に出品した。

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午後の太陽が雲を焼き散らす直前の約3,000フィートの花こう岩の壁、トリニダードの基部。写真:ゼノン・シーリガー

当時、プエロ・パタゴニア社長のホセ・クラロは、ある考えを抱いていた。ハーゲマンはコチャモの宿敵である必要があるのか。2017年、ハーゲマンの水力発電プロジェクトを巡る熾烈な対決で、ホセとロドリゴはついに最高裁でハーゲマンに勝訴しており、甚大な影響をもたらす彼の数々の開発事業は、地元の賛同を得られはしなかった。プチェギンを即転売しようとしたことも、おそらくハーゲマンが窮地に立たされていることを示唆していた。ホセは彼に接触し、対話を開始した。

「長いこと敵対してきた相手と合意に至ることは、明らかに大きな課題だった」とホセは言う。「しかし、魂の奥深くで、我々は互いに相手が必要であることを分かっていた」

ついに、両者は相違点を明確にし、交渉し、そしてコミュニティがプチェギンを6,300万ドルで購入できるという、今日の大きなチャンスを生み出した。

納得しがたい金額であり、用意できるはずもなかった。コチャモの地元NGOにとって、その値札は高すぎた。さいわい、この2年間にフレイヤ基金、パタゴニア、ウイス基金、ザ・ネイチャー・コンサーヴァンシーなどの大規模な保護団体が募金活動に加わり、このプロジェクトを信じてくれる個人の協力もあって、必要額の約半分を寄付で集めることができた。こうした連携によって、地元に関する深い知識と国際的な専門性を組み合わせた新たな連合「Conserva Puchegüín」(プチェギン保護)が誕生した。目下、ロドリゴは少し白髪が増え、髪も薄くなったが、闘いを続けており、世界中を旅しながら、寄付を期待できそうな人々と面会し、チリや世界で活動を広げようとしている。

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シルヴィーナと息子ゼノン・シーリガーは、カピキュア岩壁付近の数多い滝の1つを徒渉する。写真:ダニエル・シーリガー

私たち、つまりシルヴィーナと私は偽善者なのか。時おり、この闘争の過程で、私は自分の疑念を認めた。結局、私たちは土地を購入し、その後、不動産開発者の同じ機会を否定するキャンペーンを起こした。自身はキャンプ場や避難小屋を建設しておきながら、アワニーのようなホテルやカリービレッジのようなショッピングセンターを開発したいという投資家の願望と闘った。私たちと彼らにどれほどの違いがあるのか。

すると、シルヴィーナが私に念を押す。私たちがこの谷でゼンを育てたこと。私たちがキャンパーに手頃なスペースを提供し、コンポストトイレの使い方を教えたこと。サンドヴァル一家は谷を通って馬で人々を運ぶし、ロドリゴは観光客にトリニダードの登山道を案内している。地元のクライマーのホセ・ダットーリは、アンフィテアトロで登山教室を指導している。クリスチャン ‘モノ’ ガヤルドは、この谷の高所にクライマーやハイカーのために浴室を設営するボランティアを率いている。観光学科の生徒は、ビジターセンターでバックパッカーを出迎える。地元のアリエロは、登山道の難所に橋や厚板を架ける手伝いをする。シキーニョは、初めてクライミングルートを開拓し始めて25年が過ぎても、ほぼ毎年ここに戻ってきて登山道の工事を手伝い、自作のルートに改善を施し、ゴミを持ち帰る。私たちは人々を招き入れてきたが、渓谷やコミュニティが適応できる規模でやってきた。

受け入れれば、コチャモはその人の中に深いつながりを築く。私たちは両手を汚し、ブーツを泥だらけにして、地面に汗を垂らす。種は蒔かれた。私たちが直面してきた脅威は、主として、外部から押し付けられたビジョンに起因している。私たちのコミュニティのビジョンは、内部で芽を出し、そして外部へ広がっていく。

「もし子供がいたら」と19歳になったゼンは言う。「コチャモの自然の中…そこで巨樹や小動物に囲まれて育てたい。そこには何か力強い、僕ら自身を超えるものがある」

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コチャモでは、クライマーはエルモンストロのピーク付近でのように、ひと握りの急峻な雪渓さえ克服すればよい。ミカエル・ヴァースティーグは、ラ・プレセンシア・デ・ミ・パドレの第28ピッチで、そうした雪渓の1つをリードする。写真:ラーズ・クラウセ

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イアン・クーパーと組んだラフンタでの2,300フィートの未完プロジェクトで、ロビー・フィリップスは、核心部とされる5.14dのピッチでロックを解除したばかりだ。写真:ドリュー・スミス

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完璧な大岩壁ルートであるエントレ・クリスタレス・イ・コンドレス(5.13b)上のミゲル・ベーム。写真:カタリナ・クラロ

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プチェギンとコチャモを保護する活動に参加しませんか。ほんの数分間の手続きで、ラテンアメリカに広大な野生生物の回廊を築き、この地方のコミュニティ、生き物、エコシステムに繫栄する未来をもたらす、ささやかな役割を果たすことができます。ご自身にできることや寄付の方法について詳しくはConserva Puchegüínをご覧ください。

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