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アファリン! やったね!

ローレン・ドローネー・ミラー  /  2023年4月26日  /  読み終えるまで19分  /  クライミング

ヨセミテに集うアフガン女性たちが、そこでのクライミングに見出した故郷とのつながり。

カリフォルニア州ヨセミテ国立公園で登るために必要なクライミングギアとツールの進化について、クライミングレンジャーが催したプレゼンテーションを受けながら、いろいろな種類のカムを手に取ってみるミナ・バクシ、ハニヤ・タヴァソリ、スグラ・ヤズダニ。

全ての写真:Miya Tsudome

7月下旬、私はヨセミテ国立公園の東側境界のすぐ外にあるデイナ・プラトーに向かい、グレイシャー・キャニオンを登っている。小さな滝をあちこちにしたがえて渾々と流れる川の脇を歩いているのだが、その水音が激しすぎて、スグラの声を聞き取るには彼女に近寄らなくてはならない。スグラは2021年8月15日のことを話す。その日はいつもと同じようにはじまった。朝起きて、アフガニスタンのカブールへと出勤したと言う。「そしたら」と彼女はつづける。「皆、家族から電話がかかってきたの。タリバンがカブールを制圧したって」

タリバンは5月以来、米軍の撤退と同時に国中の地域の占拠を少しずつ進めていた。すでに多くの州都がタリバンによって攻撃され、8月13日にはヘラート、カンダハル、ラシュカルガーが制圧されていた。8月14日にはさらに7つの州都市が陥落。しかし国内の農村部の情勢悪化が勢いを増しても、カブールでの暮らしはさほど変わらなかったとスグラは言う。それも大統領のアシュラフ・ガニーが国外へ逃亡するまでは、の話だが。そして8月15日、武装集団がカブールに押し入り、その翌日には報道官によって戦争の終結が宣言された。つまり、タリバンの勝利ということだった。

アファリン! やったね!

エルキャプ・メドウお決まりのポーズをとる女性たち。首をそらせ、金色に輝く花崗岩に目を細め、来たる体験に想いを馳せながら。

スグラ・ヤズダニは幼少期のほとんどを難民としてパキスタンで過ごしたが、2018年に家族とともに故郷のアフガニスタンへの移住を果たした。つねにスポーツを愛していた彼女は、女の子を対象にクライミングやハイキングを教える団体〈アセンド〉のことを友人から聞くと、すぐにクライミングに興味をもった。スグラはアフガン女性としては比較的自立した生活を送っていたが、山でのクライミングは普通の女の子にとっては常識を超える行動だった。「それは家族の期待にも反することでした」と彼女は言う。最初は父親には隠そうとして、許可書は姉に署名してもらったが、2回目の山への旅のあとにはそれ以上隠しきれなくなっていた。しかし最終的には父親は納得し、いまではクライミングが彼女の可能性を広げたことを誇りに思ってくれている。「クライミングをするたびに、強くなれる気がするの」とスグラ。「何にでも立ち向かっていける気がする。この大きな山を登れるなら、って」

マリナ・レグリーが2014年にアセンドを創立した当時、彼女はクライマーではなかった。国際関係学で紛争解決を学んで修士号を取得したのち、10年間アフガニスタンでNGOやNATO、軍とともに情勢の安定化に携わったマリナは、その後、新世代のアフガン女性たちを力づけてリーダーに育成したいという夢を抱いて、大学院へ戻るためにアメリカに帰国した。それからアフガニスタンの山々での体験を思い出した彼女は、クライミングがそれにうってつけの場であることに気づいた。クライミングとは「強さと決断力そのもの。境界を押し広げるアフガン女性になるためには、タフになる訓練をしなければ」とマリナは語る。その2年後にハーバード大学のケネディ・スクール(公共政策大学院)を卒業し、行政学修士号を取得するとふたたびアフガニスタンへ。

アファリン! やったね!

ダフ・ドームのガイド・クラックを登りながらハイタッチを交わすミナとハニヤ。カリフォルニア州トゥオルミ・メドウズ。

2021年の春には新たなスポーツセンターを建設していたアセンドには、毎年何十名もの女性が入会するようになり、設立以来から数えると200名以上の女性がプログラムに参加していた。しかしアセンドはその後まもなく、プログラムが崩壊していくのを目の当たりにすることになる。2021年の夏には、スグラの精神力が試されるときが訪れた。もし新タリバン政権が以前のものと同じであれば、彼女が愛することはすべて許されなくなる。彼女を含めすべての女性たちは、タリバン支配下では不自由な生活を強いられるだろう。スグラはクライミングもしたいし、自転車に乗り、学校に通い、仕事もつづけたかった。8月が終わるころには、これ以上アフガニスタンにはいられないと悟った。パニックに陥ったスグラはマリナに連絡を取ると、すべてを打ち明けた。家族とともに1週間以上も家に閉じこもり、外出を恐れて過ごしていた彼女たちが望むのは、国外逃亡であるということを。

いまここヨセミテで旅の4日目を迎えたスグラにとって、カブールを囲む山々は地球の反対側にあったとしても、山にいることが安らぎをくれる。深い渓谷、猛々しい岩の頂、ハイ・シエラの残雪が、彼女に故郷を思い出させていた。

タリバンの急速な権力掌握はアセンドには予想外だった。「もしタリバンが政権で重要な役割を果たすことになれば、私たちも少し方向修正をしなければならなくなるとは思っていました」と語るマリナ。「ただ、彼らによる完全な支配は予期していなかったし、ましてやあのようなスピードで起こるとは」クライミングを通じて自立性を表現することで女性たちが暴力の対象となることを、マリナは恐れた。殺される可能性だけでなく、もし生き延びたとしても、結婚を強制され、教育やスポーツの夢を絶たれることになるだろう、と。

スグラやアセンドの参加者の国外逃亡は、マリナのような外部の団体からの協力なしでは不可能だ。マリナと彼女の少人数のチームは休むことなくその手段を探った。この小さな団体にとって、クライミングトリップやスポーツプログラムを計画することから複雑な移民手続き業務への突然の移行は、目が眩むようだった。「それは本来の私たちの仕事ではなかったし、やりたい仕事でもありませんでした」とマリナはつづける。「でもタリバン政権による制圧の酷さが明確になった時点で、即決断しました。団体に所属する女の子たちの反応が決め手になりました」

マリナは急いで米国国務省からアセンドに対する承認を取り、次のステップを女性たちに伝達した。そしてクライミングのコミュニティも動員できることを願って、チームは雑誌『アルピニスト』に連絡を取り、アフガン女性たちが直面する危険について語られたオンライン記事を8月に掲載した。マリナのチームの援助があっても、スグラや他のアセンドの女性メンバーたちが国外逃亡できるという保証はなかった。マリナは彼女たちが単独で旅する方が、成功する確率は高いと知っていた。「カブールやアフガニスタンを去ることはとても困難でした」とスグラ。「カブール空港はタリバンの手中にあって、誰も空港に入れなかったから」タリバンによって検問を受け、男性家族が同行していないのを発見されたらどうなるかという不安を抱えながら、マザーリシャリーフへの危険なバス移動を経たスグラとチームメイトは、空港へ近づくためだけに1か月を費やした。そのあいだには、あきらめて戻るべきかと考えることもあった。でもようやく航空機が動きだすと、移住を希望する多くのアフガニスタン難民とともに、彼女はついにカタールの米空軍基地にたどり着くことができた。アセンドは移民を受け入れてくれる国を見つけては、プログラムの参加者、スタッフ、家族など134名のメンバーを援助した。彼女たちの行き先はチリ、アイルランド、デンマーク、ドイツ、ポーランド、カザフスタン、カナダ、そしてアメリカなどにおよぶ。スグラはカタールで1か月待機したのち、2021年10月にアメリカに到着した。最後のアセンド会員の移住が完了したのは、2022年の9月のことだった。

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ガイド・クラックで女性たちをサポートするメルリン・ヴェヌゴパル(ビレイ)とミシェル・ペレット

アメリカに移住したアセンド会員30名のうちスグラを含む5名は、12月にはノースカロライナ州ローリー/ダーラム地域に落ち着くこととなった。アセンドのミッションに強く賛同するクライマーのグループがスポンサー・サークルとして支援してくれることになったのだ。スポンサー・サークルとは新しく設立された行政プログラムの一貫で、公式な移住支援団体ではなく、小さなグループが個人的に生活支援を提供するというものである。移住後はアセンドのボランティアであるアン・マクローリンや彼女の夫トム・ドリューズが、積極的にあらゆる面で支援を提供している。大学への願書や、就職活動、複雑な健康保険の書類関連を手伝ったり、またできるかぎりひんぱんに山やクライミングジムへの送迎の段取りをつけるなどのほか、アンは地元のジムに掛け合って、アフガン人クライマーの会員費を無料にしたり仕事の紹介などもしている。

スグラが最初にマリナに助けを求めたころ、つまり彼女たちがアメリカに移住する何か月も前のことに話を戻そう。雑誌『アルピニスト』のアセンドについての記事が、ヨセミテ・サーチ・アンド・レスキュー(YOSAR)のメンバーであるジャック・クレイマーとミシェル・ペレットの目に留まった。彼らはアメリカの飛行機に必死でしがみつくアフガン人たちの痛ましい映像を目にして、アセンドの女性たちのなかにもアメリカに来ようとしている人がいるのではないかと推測した。クライマーとしてできることは少ないかもしれなかった……が、アセンドの女性たちも、彼らと同じようにクライマーなのだ。ミシェルはジャックが「一緒に登ろうって誘えばいいじゃないか!」と言ったのを覚えている。「それほど単純なことだったのよ」とミシェル。そこで彼女は同じくYOSARのメンバーであるメルリン・ヴェヌゴパルに、アセンドの女性たちをクライミングのコミュニティで歓迎したらどうかと提案した。そして彼女たちを迎えるのに、ヨセミテ以上の場所があるだろうか。

ミシェルとメルリンの展望は単純なものだったかもしれないが、それからの10か月におよぶ計画は簡単には進まなかった。幸運にも、ミシェルとメルリンは困難や複雑な状況に臆する人間ではない。困難な場所へと足を踏み入れようとする意欲と情熱こそ、彼女たちがYOSARに参加するようになった本来の理由だったからだ。

2022年7月のある日曜日、8名の若いアフガン人クライマーがカリフォルニアに向かって飛行機に乗った。スグラ、ハニヤ、バトゥール、ラビア、ミナ、ライハナ、ライハナの弟マンスール、そして家族への危険を配慮して名乗ることのできないもう1人が、夕刻ヨセミテ国立公園に到着した。旅の疲れはあるものの、息を呑むようなバレーの壁に一様に興奮していた。山火事の煙で何週間もこの旅の決行は危ぶまれたが、奇跡的に煙は消え、ワウォナ・トンネルからはバレーの壮大な景色を見渡すことができた。このイベントを手伝おうと集まったミシェルとメルリンの仲間には、ガイドやクライミングレンジャーや他のYOSARメンバー、そして元YOSARメンバーであり長年の友である私自身も参加した。彼女たちが計画のために何か月も費やし、私たちの誰もが待ち焦がれていたこの旅に胸を躍らせていた。

アファリン! やったね!

キャンプ4にあるヨセミテ・サーチ・アンド・レスキューのサイトでキャンパスボードに挑むハニヤ。

1週間にわたる旅での最初の朝、まだ午前9時だというのに、バレーの花崗岩の岩壁からは熱が発せられている。空気にはオークの葉の甘い香りが漂い、笑い声があちこちに響いている。私たちは道路脇にある人気の岩場「スワン・スラブ」でウォーミングアップ中だ。完璧なハンドジャムの習得から、日に灼かれたつるつるの岩肌にシューズのラバーを効かせることまで、ヨセミテで必要なスキルを皆が練習できるようにサポートメンバーがトップロープを設置している。今回ここにいる女性たちの技術レベルはさまざまで、なかにはアメリカ移住後に本物の岩を登るのはこれがはじめてという人もいた。この旅は笑いに包まれていた。冗談を言ったり、皆を歌ったり踊ったりさせるハニヤ・タヴァソリは、その中心的存在である。彼女は過去1年の困難な状況を話すことで、誰かを沈んだ気持ちにさせたくないのだ。ただ、自分の経験してきたことをわかってくれる人が周囲にいるだけで癒されている。ハニヤは家族とともにアフガニスタンを脱出できた、数少ないアセンドのクライマーの1人である。彼女の一家はミネソタに移住し、他の女性たちからは遠いところにいる。この秋からミネアポリスの学校に通えることを楽しみにしているが、母国語をしゃべる機会は少なく、友人に会えない寂しさは隠せなかった。

この旅に参加した女性のほとんどは、タリバン政権の支配下で危機が迫っているアフガニスタンでは、民族的にも宗教的にも少数派のハザラ族である。(この旅のあとの2022年9月には、アセンドの女性たち数名が通っていた教育センターがタリバンによって爆破された。)彼女たちは多くのアフガン人によって使われるペルシア語系のダリー語を話すが、タリバンはパシュトー語しか公用語として使わない。1996年から2001年までつづいた前タリバン政権ではパシュトー語が強要されていたため、多くのアフガン人はダリー語がふたたび禁止されるだろうと見込んでいる。彼女たちがダリー語で話したり歌ったりするのを見て、私はミシェルとメルリンが真に築いたものが何であるかに気がついた。この旅は、彼女たちがアメリカのクライマーと出会う機会であると同時に、さらに意義をもつのは、彼女たちが母国語を話し、生活が激変してから1年以上も会えなかった友人たちと再会するための場所となった

アファリン! やったね!

クライミングに関しては妹のラビア・フセイン(右)が姉のバトゥール・ベヘナム(左)の足取りをリードする。ここではエルキャプ・メドウでくつろぎながらヨセミテの醍醐味を満喫中。

アファリン!やったね!」絶え間なく互いを励ましつづけ、ルートの合間に岩場に満ちるのは歌声だ。

午後になると暑さは限界に達していた。花崗岩の黒い部分は熱すぎて、登ることは困難だ。ミシェルとメルリンにとって7月のヨセミテ・バレーでの生活とは、マーセッド・リバーで泳いでくつろぐことでもある。アフガン女性に水泳の経験はほとんどないが、彼女たちはヨセミテ・フォールズ下の天然のプールではしゃぎ声を上げながら水遊びを楽しんだ。

やがて私たちは背の高い松林の木陰にある心地よいキャンプ場に戻る。ミシェルがギターを取り出すと、どこからともなく皆がバンドを組みはじめる。ライハナがギターを手に取ってかき鳴らし出すと、ハニヤは指揮者を演じる。彼女たちが自国の民謡や歌謡曲を歌うころには、カラスまでが集まって聴き入った。こうしたキャンプ場での合唱はなじみのある光景だが、ここで飛び交う彼女たちのダリー語だけが、戦争によって引き裂かれた故郷から何千キロも彼方にいるという現実を思い起こさせる。

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この旅のグランドフィナーレとなった、スワン・スラブ・ガリーの2ピッチ目を進むスグラ。

スワン・スラブでウォーミングアップした翌日は、より難しいルートが待ち受けるダフ・ドームを目指して標高を上げた。夏のトゥオルミ・メドウズは爽快で、暑さから逃れることができて皆ほっとしている。車からの短いアプローチは自撮りでたびたび中断される。ダフ・ドームの東壁からは、フェアビュー・ドームが道路の向かい側に、そして奥にはカシードラル・ピークが見渡せる。ヨセミテ・バレーのそびえ立つ岩壁に堂々たる威厳を感じるならば、トゥオルミはそれとは対照的な広々とした開放感を与えてくれる。

水曜日はクライミングシューズをしまい、デイナ・プラトーへとハイキングをすることにした。しばしば野生の花に見とれながら、渓流の脇を登っていく。スグラがアフガニスタン脱出の過程について語りはじめたのは、このときだった。台地の端まで歩き、人気のクライミングルートであるサード・ピラーの頂上に立つと、歩いてきた草原は瞬時に眼下へと遠ざかった。岩壁は険しく劇的であり、モノ・レイクは眩い光を放っている。

アファリン! やったね!

ドキドキしながらスワン・スラブで懸垂下降をはじめるハニヤ。

この旅の発案を助けたジャックは記録役として参加しており、今日はサプライズを袖の下(正確に言えばパックのなか)に隠し持っていた。何時間も高地をハイキングしてやっと頂上にたどり着いたジャックは、子どものような笑顔で凧をバックパックから取り出した。

けれども彼はすぐに重要な部品である中心の支柱がないことに気づく。そこで私たちがYOSARで培ったスキルを活かし、あるものでなんとかしようと考える。やがて皆がまっすぐで強い棒を探しに出たが、標高約3,300メートルにある台地では、数百メートルも下に生えている木々以外には、見渡すかぎり1本も見つからない。それでもなんとか低木を見つけると、最善を尽くして貧弱な棒をテープで凧にくくりつけた。見た目はバカバカしいほど情けなかったものの、それを飛ばせてみる気は満々だった。

ジャックがラビアに糸巻きの引き出し方を見せ、スグラに凧を渡す。期待は高まっていたけれど、冒険野郎マクガイバー的なその場しのぎの凧が実際に飛ぶなんて誰も思ってはいない。しかし、空へ放り出された凧は、皆の驚きとともに高々と舞い上がる。

旅の最終日に私たちは4つのチームに分かれ、それぞれ違うルートをたどってスワン・スラブを登り、頂上で待ち合わせることにした。何人かにとっては、これがはじめてのマルチピッチ・クライミングでもある。この1週間の栄光を祝うにふさわしい締めくくりだ。岩は熱くて指先が火傷するかと思うほどだったが、彼女たちの集中力と決意は揺るぎない。どれだけ日焼やけして汗をかいても笑顔を絶やすことはなかった。頂上に到達すると、彼女たちはアフガンのポップミュージックを携帯電話から流して歌い踊る。そしてハーフ・ドームと眼下に広がるバレーを見渡す。先週の山火事の煙が今夜にも吹き戻ってくるだろうが、いまこの瞬間、空は真っ青に澄み渡っている。

笑ったり踊ったりする皆を眺めているうちに、この集まりは私が過去にクライミングをしたなかで最大の女性グループだということに気がついた。私のクライミングの経験はいまだ男性が大部分を占める世界にある。だからこの数年間は私たちの前身となった女性たちの物語に光を当てようと、ヨセミテの女性クライマーの歴史を記録してきた。これほど多くの女性たちに囲まれ、女性が企画して先導した旅に参加できたことが、私にとってどれほど意義深いかということのすべてをアセンドの仲間に伝える。けれどもそこで同時に気づいたのは、アセンドを通じてクライミングをはじめた彼女たちには、女性以外とクライミングをする経験はなかったということ。「クライミングは女性のスポーツ」だと、彼女たちはきっぱり言い切る。

私が2018年にはじめてYOSARに参加したときは、同僚男性のボディランゲージを真似していた。感情を漏らさない固い表情で、腕を胸の前で組み、足を広げて立つ。どこへ行くにも、このマッチョな姿勢でいた。私のクライミング人生は10年近くのあいだ、少なくともある部分において、自分自身を証明するためにあった気がする。もっと真のクライマーになれるようにと、マニキュアやジュエリーを身につけたりするような自分が女性らしすぎると思っていたことはやめた。私の「真のクライマー」像は男性だったことに気づかずにいたのだ。

アセンドのクライマーたちにとって、女性でいることはさまざまな意味をもつ。それは教育のために闘うこと。それは自分たちの家族とともにとどまるか、故郷を去るかという、難しい決断を下すこと。

そして勇敢であり、強くあること。つまり、クライマーであるということを意味する。

アファリン! やったね!

デイナ・プラトーの頂上で凧を上げるラビア。木の枝をテープで貼り付けた凧が飛翔する様子は、まるで小さな奇跡のよう。カリフォルニア州シエラ・ネバダ

アセンドの女性たちが経験してきたこの1年半の激動は、想像を絶する。彼女たちは現在のアメリカでの安全な暮らしに感謝するとともに、自分たちの家族を恋しく思いながら、難民であることの意味を理解しようと必死だ。大学に通いはじめた人もいれば、複雑な出願手続きの最中という人もいる。家族とともに生活する人もいれば、自身の家族を築こうとしている人もいる。ライハナとマンスールとミナは、ローリーで一緒に暮らすアパートを見つけたばかりだ。そしてその全員が、亡命申請の次の手続きを待っている。アメリカへは人道的臨時許可という確実性に欠ける法的身分で入国したため、彼女たちの未来はいまだ不安定なままである。

アセンドはアフガニスタンでこれからのプログラム展開をどうすべきか模索中だが、マリナとチームは勢いを失っていない。活動をパキスタンへと広げて足を運び、1週間かけて地元の指導者や組織者やクライマーとのミーティングを重ねたのち、アセンドのミッションはそこでも熱心に受け入れてもらえると判断した。

スグラにとって、当時アセンドに入会することは小さな決断だった。だからまさかクライミングがタリバンから逃れることを助け、故郷の山々から11,000km以上も離れたカリフォルニアでコミュニティとつなげてくれるなんて想像すらしなかった。そして花崗岩を見て、異国に親近感が湧くことになろうとは、思いもよらなかったはずだ。

この旅はクライミングのコミュニティの最もよい点を象徴したものだった。それは、アセンドの女性たちのような人びとをヨセミテに招くために何百時間も費やしてきたコミュニティ。飛行機代や、レンタカー、キャンプ用品や食料の寄付などで、この計画の実現を可能にしてくれた人たち。ビレイや荷物運び、送迎のために集まってくれた人たち。お気に入りの岩壁や、「秘密」の川遊びのスポットや、隠された憩いの場所を共有してくれた人たち。ただ空に舞うところを見る楽しみのためだけに、バックカントリーに凧を持ってきて、間に合わせの棒をくくりつけて飛ばそうとした人たち。

ミシェル、メルリン、ジャックにとって、この旅は他のクライマーとつながり、彼女たちを歓迎したいという単純な願望から生まれたものだ。ハニヤのようなアフガン女性は、クライマーであることでコミュニティとつながることができたのだ。それがたとえ地球の反対側であったとしても。「コミュニティにいれば、私はよそ者ではなくなります」と彼女は言った。「それは、孤独じゃないってこと」

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