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一本の板が道標となる

村岡 俊也  /  2025年4月2日  /  読み終えるまで10分  /  スポーツ, サーフィン

16歳の藤澤然一は、自分のために削ってもらったサーフボードを完成させる旅に出る。日本各地でメンターと生活を共にし、板を巻く技術と人生哲学を少しずつ学んでいった。

Photo: Valentin Feltrin

高知で生まれ育った藤澤然一は、16歳で自分の道を切り拓くような実りある旅を経験する。
始まりは、13歳の時だった。夢中になっていた一眼レフのカメラを構えて、地元のビッグウェーブポイントを撮影していると、巨大な波に挑む親子がいた。撮った写真を渡そうと声をかけると、日本を代表するビッグウェーバーである角直(すみ すなお)と、息子の角勇海(すみ いさむ)だった。和歌山から波を当てにきた彼らの姿は、まだビッグウェーブに強く惹かれていたわけではない然一の胸にも響くものがあった。翌年に再び高知を訪れた角親子と一緒に波乗りをするうちに親しくなっていく。然一が別れを惜しんでいると、「いつでも和歌山に来る時は連絡してきな」と言われた。

翌2022年秋、その言葉を頼りに、単身、和歌山へと向かう。サーフボードを抱えてフェリーに乗り、鈍行の電車を乗り継いだ最初の夜は、駅裏の公園のベンチで野宿をした。再会した角親子と一緒に海に入り、彼らの口喧嘩のような、けれど根底に優しさを感じさせるやり取りに親しんでいく。およそ3週間、生活を共にする中で、少しずつ彼らが歩んできた道について聞かされた。角直が板子と呼ばれる木の板で波乗りを始めた話、まだほとんど日本人サーファーがいない1980年代からハワイのビッグウェーブを滑り、革新的なシェイパーとして知られるオウル・チャップマンから手ほどきを受けた話。その長いプロセスで培われた哲学が、勇海をビッグウェーバーとして育て、彼らの特別な存在感を生んでいることを知る。勇海は、世界中のサーファーがもっとも敬意を抱くコンテストである「Eddie Aikau Big Wave Invitational」で昨シーズン、補欠ながら招待を受けた唯一の日本人サーファーとなる。

一本の板が道標となる

和歌山県新宮市で、角親子が営む「CORNER SURF SPORTS」。

滞在中、角直から「必要なボードがあったら、削ってやる」と言われ、然一は日本国内どこでも使えるよう、7`4のセミガンを頼んだ。サーフボードは、シェイパーが削り終えたブランクスをガラス繊維の布で巻き、樹脂で硬化するグラッシングという過程を経なければ使うことはできない。シェイプが終わると角直は「もしゼンにやる気があるなら、自分でボードを仕上げてみなさい」と言って、然一に渡した。5歳上の勇海からは「ゼンもハワイに行こう」と何度も誘われた。

サーフボードのリペアはアルバイトで請け負うほど経験があったが、自分でグラッシングをしたことはない。中途半端なことはできないと思い悩んで然一が連絡を取ったのが、長らくハワイに通い、自身も板を削る田中宗豊だった。角直にもその旨を相談すると、彼ならよくわかっているからという返事だった。宗豊からは「角さんが君に託したボードを持って、住み込みで来なさい」と言われ、然一は徳島へと向かう。
宗豊は、まずは自身が子供用に削ったブランクスで練習するように言い、他の工場では省くような工程も端折らずに丁寧に段階を踏んで教えていく。近年、軽い板を志向するサーファーが増える中でも、かつてのハワイアン・スタイルのような、重く強い板の仕上げに理想を見ている。

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角直から預かったディケールをセットしているところ。白いガラス繊維で巻き、樹脂で固めて、強度を増す。写真:田中 宗豊

空いた時間には波乗りをし、畑仕事を手伝いながら話をする。然一は、親子ほど歳の離れた宗豊が送る日常を、遠い物語のように聞いた。

「宗豊君に『いろんな波に乗りたい、良い波に乗りたい』って話をしたら、『昔は僕もそうだった。でも今はどんなでかい波よりも、家族のことを全部やって、畑仕事して、最後にちょっと海に浸かれたらそれでいい』って言われたんですね。もう別に波を追いかけてないよ、みたいなことを言われた時には、なるほど、最終的にはそっちに行くんだって」

シェイプルームの壁には、信じられないほど巨大な波に乗る宗豊の色褪せたポスターが貼られている。どうして宗豊が波を追いかける必要がないのか、その理由を説明しているかのようだった。2週間ほどの滞在で、板は最終のフィニッシュコートの過程を残すのみとなった。

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工房の壁に貼られた色褪せたポスターが、宗豊が歩んできた足跡を雄弁に語る。写真:田中 宗豊

徳島を出て向かったのは、友人のリペアマンが暮らす神奈川県葉山町だった。着いてすぐに運よく鎌倉のクラシックポイントの波が上がり、仕上げ前の板で滑ることができたが、以降、梅雨時の湘南にはおよそ1ヶ月間ほとんど波がなかった。然一は、電気もガスも通っていない山の中のリペア小屋で、「まるで監禁されているみたいに(笑)」働くことになる。朝起きて、土鍋で米を炊き、歯を磨いていると友人がやって来て、リペアが始まる。夕方には発泡スチロールのトロ箱に、焚き火で沸かした湯を張って風呂代わりにした。規則正しく、自然のリズムに合わせて暮らしながら、運ばれてくるさまざまなボードのリペアに明け暮れる。

角や宗豊に倣って、オールドスクールなハワインスタイルのサーフボードを志向していたが、曰く「超・変な板」が次々と運び込まれる環境で、少しずつ考え方が変わった。「こんなの乗れねーよ、とか思うんですけど、でも湘南の波にはこういう板が面白いんだろうなって思うようになったんです。乗る波が違えば、考え方もボードデザインも違ってくる。全部違うから面白いんだろうなと」と然一は言う。その素直さこそが、然一の魅力かもしれない。若さゆえの傲慢も固定概念も持っていない。土地に根付いて暮らす人が持つ豊かさに触れながら、自分には何ができるのか、少しずつ形にしようと自分の頭で考え続けている。それがいかに尊いことか、同じように自分の足で歩んできた先達たちは知っている。

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葉山の森の中にある工房での、ワイルドで健康的な生活。写真:森 賢一

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工房にはさまざまなタイプのボードが運ばれてくる。写真:森 賢一

葉山でのリペア仕事の合間にフィニッシュコートを行い、とうとう角直シェイプ、藤澤然一グラッシングの世界に唯一のサーフボードを完成させた。地元・高知のビッグウェーブポイントで始まった旅は、和歌山を経て、徳島、葉山へと繋がり、再び和歌山へと向かう。角親子に仕上がった板を見せると、「初めてにしては上出来、重さもいい感じ。バッチリや」と認めてくれた。サイズはそれほど上がらなかったが、クリーンなコンディションの海で一緒に波乗りをして、それから高知へと戻った。

一本のサーフボードを完成させる旅によって、16歳の然一は自分の進むべき道を朧げながら頭に浮かべるようになった。ガラス繊維を巻くラミネーターは、今はまだ「いろんな場所に行きたい、いろんな波に乗りたい」然一にとっては、とても良い仕事かもしれない。

「シェイパーって、結構たくさんいると思うんですね。でも自分で巻いて、最後まで一人で作り上げる人はそんなに多くない。削った後のグラッシングは、さらに職人的と言うか、あまり表に出てこないですよね。でも、失敗して穴が空いていたら使い物にならないし、板の調子、強度にもすごく関わる仕事。だったら、そっちの方が面白いじゃんって。世界的に見てもラミネートする人は少ないから、どこに行っても仕事になるんじゃないかな。シェイパーは世界中どこのサーフスポットにもいるから、そこで自分もシェイパーになるって言ったら、敵じゃないけど、派閥が生まれちゃう。でもラミネーターとか仕上げをするサンディングマンは、その土地に馴染めるんですよ。手伝わせてください、仕事くださいって言ったら、世界中どこに行ってもできるんじゃないかなって考えてます」

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完成した板で、サイズの上がったサンセットの波を滑る。(ハワイ・オアフ島・ノースショア)写真:木本 直哉

高知を訪れたことのあるオーストラリア人のシェイパー、エリス・エリクセンから連絡が来て、一人でラミネート、サンディングする機会を与えてもらった。自分が動けば、誰かが見てくれている。その事実もまた彼を新しい世界に押し出しているのかもしれない。2024年末には、角勇海に誘われていた念願のハワイへと行ってきたという。自分が貯めた金で1ヶ月の滞在費をすべて賄い、角親子が親しくしているシェイパーのサム・ユンとも過ごした。

「サムさんがシェイプを教わったのも角(直)さんで、いろいろ繋がっていて面白いんですけど、サムさんは会う度に不思議なお茶をくれるんです。黒胡椒と高麗人参と蜂蜜みたいな、腹を下すようなヤツ(笑)。ある日、『今日は波も良くないから、掃除するぞ』って言われて、サンセットのライフガードタワー前の公園を掃除したんです。『ゼン君、こうやって場所を大切にしていたらね、そこにいる人たちはあなたを見てくれるようになる。感謝されるんだよ。どこでも一緒。それが、その土地に馴染む大切な第一歩だ』って教えてくれた。掃除が終わって一息ついていたら、そこら中にいる野良の鶏をサムさんが捕まえたんです。すぐに首を折って捌き出して、その辺に生えているハーブも入れて鍋を作ってくれた。サムさんは『この土地のエネルギーを体に入れるのが、一番シンプルで体にも良い。何も無駄がなくてハッピーなんだよ』って。『ああ、そうなんだ』って言いながら食べたら、めちゃくちゃ美味かった(笑)」

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車で寝泊まりしているサム・ユン(右)が晩飯を作ってくれた。角勇海(左)と一緒に。

各地でメンターとも呼ぶべき先達と出会い、新しい知見を獲得していく。「ああ、そうなんだ」と頷きながら、共に過ごした時間を、自分の血肉に変換していく。角直の師であるオウル・チャップマンとも海に入り、とても柔らかい物腰の奥にある芯のようなものに触れた。

帰国してすぐに向かったのは、長野県白馬村だった。今年3年目になるスノーボードショップでのリゾート・バイトでは、雪を求めてやってきた年上のオージーたちとルームシェアをしている。英語のトレーニングも、この仕事を選んでいる理由のひとつという。雪が良ければスノーボードをしてから仕事にかかり、毎日の食事は自炊が基本。雪がなくなるまで白馬にステイして、その後の予定はまだ決めていない。同部屋のオージーたちが帰りに寄ると話しているタイに「一緒に遊びに行こうかな」と、頭の片隅で考えていると言う。波はあった方が良いけれど、波がない場所でも良い。とにかく世界を見てみたい。その純粋な好奇心が、新しい自分を連れてくることを、然一は知っている。

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バイト先の「The Boarding Co」にて。スノーボードのメンテナンスなどを行なっている。写真:栗田 萌瑛

けれど、秋には必ず高知に戻る。なぜなら、バレルを狙いたいから。

「今は、高さのあるでかい波よりも、バレルをもっと狙いたい。すると日本なら河口で、必然的に高知にいることになる。外したくない波があるから、毎秋は高知にいるけれど、それ以外の時期にはいろんなところでバイトしながら過ごすのかな。まあ、わかんないっすね(笑)」

高知の河口で、先達が削り自分が巻いた板に乗って、バレルに包まれる17歳の然一は、きっと笑っているだろう。

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滞在中の白馬にて。写真:栗田 萌瑛

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