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海からの滑走

寺倉 力  /  2025年2月4日  /  読み終えるまで10分  /  スポーツ, スノー

スキーヤーの中島力は、あるとき啓示を受けたようにヨットの旅に生きようと決意した。初航海はスキーを積んで小樽から利尻島。ヨットで海を渡り、利尻山を滑る。

2024年5月1日、自身のカタマランヨットの処女航海中の中島力。小樽を出港して2日目の夕刻、目指す利尻島が姿を現した。写真:中西隆裕

海を渡って滑る価値がある山

2024年5月3日、中島力は利尻山のショルダーにあたる標高1,250mの小ピークに立っていた。北海道利尻島の中心に聳える利尻山はまるで海に浮かぶような単独峰で、その美しい姿から利尻富士とも呼ばれている。自分の脚で登ったぶんだけ海辺まで続くダウンヒルを堪能できるとあって、滑り手にとっては憧れの山だ。
厳冬期ならあらゆる方向に滑走ラインを見いだせるこの山も、この時期に滑走できるのは北面の沢筋に限られている。年々春の雪解けが早まっていることも不安要素だった。

海からの滑走

利尻島沿岸をヨットで半周しながら山のコンディションを探った。5月は利尻山を滑るにはギリギリのタイミングだった。写真:中西隆裕

ここまで標高差で1,100m超を登ってきた。歩きはじめはスキーブーツのまま泥だらけの夏道を進み、沢沿いに雪が現れてからはようやくシール登行に切り替えたが、ほどなく斜度が強まり、再びスキーを背負っての長い登行を強いられた。だが、そんな状況とは裏腹に、中島の心は浮き立っていた。「うん、これなら十分に楽しめる」と。稜線はハイマツが顔を出していたが、谷間には雪が繋がっていたのがなによりだった。

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利尻山の中腹付近をスキーシール登行する中島。パートナーは長年の友人で利尻島のガイド、馬場岳洋さん。写真:中西隆裕

ピークに立った中島は海まで続く広い裾野を見下ろすと、はるか眼下の鴛泊港に視線を集中させた。左側にはフェリーターミナル、目を凝らすと対岸の桟橋でマストを伸ばした一艘のヨットが確認できた。昨日、小樽から3日かけて航海してきた中島自身のカタマランヨットだった。

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眼下に利尻島北部の海岸線が広がる。右上に見える小さな岬の右側に、中島がカタマランを停泊させた鴛泊港が見えている。写真:中西隆裕

中島は2022年の夏に自分のカタマランヨットを手に入れた。船上で生活しながら長い旅に出たいと考えたからだ。だが、その前にスキーヤーとしてやっておかなければならないことがあった。

「自分のヨットを手に入れたら、まずは海を渡って雪山を滑り、それから心おきなく長い航海を始めたかったんです。海沿いで滑れる山といえば、鳥海山、月山、白山などがあります。でも、陸から行ける山ならクルマでいいってことになるし、やはり、海を渡って滑る価値があるのは利尻山だと思ったんです」

早朝から4時間以上かけて登り詰めた今、ひとつの夢が実現しようとしていた。中島は深く息を吸い込んでゆっくり吐き出し、それから両手のストックに力を込めて、海まで続く雪の谷間に身を躍らせた。

海からの滑走

海に向かって標高差1,000mの爽快なダウンヒル。春らしいソフトスノーにスキーを走らせる中島。写真:中西隆裕

たまらんなぁ、カタマラン

中島は滋賀県出身。10代の頃からスキーに魅入られ、これまでスキーひと筋の人生を送ってきた。現在は北海道のトマムを拠点にスキーガイドを続けつつ、毎年のようにカナダやアラスカを訪れてはスケールの大きな急斜面に挑み、その大胆なライディングを映像や写真に残してきた。そして雪のない季節はサーフボード片手にグッドウェイブを追い続けている。そんな中島が、なぜヨットで航海しようと考えたのか。

きっかけはヨットで暮らす友人夫妻と奄美大島で会ったこと。彼らが住む家は島のなかではなく、海に浮かべたカタマランヨットを家代わりに暮らす船上生活者だった。

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2021年7月。サーフトリップ中の奄美大島で船上生活を続ける友人夫妻のカタマランに同乗。この日、自分の人生に新たな選択肢を意識した。写真:中島力

「ヨットって、金持ちの贅沢な遊びだと思っていたんですよ。でも、彼らは『お金なんかぜんぜん使いません』と言いました。一度海に沈んだ木製のカタマランを譲り受け、1年かけて自分たちで修繕したそうです。着るものはTシャツとトランクスさえあればなんとかなるし、食料は物々交換と、あとは海と山から手に入れる。奄美は山があるので、島にしてはきれいな真水が豊富に手に入ります。ああ、この手があったのか、と僕には衝撃的でした」

中島は冬は北海道でガイド仕事、それ以外の時期もガイドやサーフトリップで1年の大半を旅先で過ごしている。それゆえ、不在がちな住まいに家賃を支払っていることにも違和感を覚えていたという。だが、ヨットに住めばそうした悩みは解消され、その気になれば家ごと旅に出ることだってできると考えた。

「船の生活って、狭いところに押し込められるイメージがありましたが、むしろ逆でした。彼らは、陸からは到達できない静かな入り江に停泊し、美しい海に溶け込むように暮らしていた。持てるものが限られる船上での暮らしはたしかに不便ではあるけれど、とてもシンプルで、だからこそ自由。そして風さえ吹けば、地球上どこへだって行ける。たまらんなぁカタマラン、と。それが2021年夏のことです」

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風に乗って、誰もいない静かな湾に停泊し、そこにある空気を吸う。ただそれだけのことが、大いなる自由を感じさせてくれた。写真:中島力

スキーがつないだヨットの輪

ヨットで生活しようと決めてからの中島は、自分の船を入手しようとあらゆる手段を通じて知り合いに声を掛けた。そんなある日のこと、雪山の撮影で一緒になった小樽ローカルのスノーボーダーから、「冬はスノーボードしていて、それ以外の時期は小樽でヨットの仕事をしている後輩がいるよ」という話を聞かされる。そうして紹介してもらったのが小樽港に近いヨット会社だった。

さっそく訪ねて行くと話は早かった。「スキーヤーのリキ君ですよね、以前からお名前はよく耳にしていました」と、客というよりは滑り仲間と話すように商談が始まった。彼は中島のやりたいことに耳を傾け、あれこれ相談に乗ったうえで、修理が必要だが格安の中古カタマランを提案。そうして社長に紹介された中島は、このようなお願いをしたという。

「僕はヨットに関して知識も経験もなにもありません。それでも、自分で自由に旅をしたいと考えているので、ぜひこのカタマランを買いたいと思います。ついては自分で修理し、自分でセイリングができるまで仕込んでいただけないでしょうか」

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航行中はコックピットに陣取って、舵とセイルをコントロール。航行はGPSが導いてくれる。写真:中西隆裕

社長はヨット界のレジェンド的な存在で、海外チームのクルーとして国際レースを戦った経験のある人物だった。そのうえ雪山が大好きなテレマークスキーヤーということもあってすっかり意気投合した。そうして購入を決めたのは、奄美の衝撃から1年後の夏だった。

「ヨットって、加山雄三さんの時代からバブルの頃までが一番多く売れたそうです。その頃の人たちはすでに高年齢になっていて、乗らなくなって維持費だけがかかるヨットをどんどん手放している。僕が買ったカタマランもそのひとつで、中古でもクルマを買うくらいの価格はしましたが、この先、家賃を支払い続けること考えたら悪くない買い物です」

社長の信用を勝ち取った中島は、もともと事務所として使っていた港の建物を無償で借り受けてそこに住み、目の前に設備も道具もヨットもすべて揃っている環境で、修理のやり方をイチから教わった。修理は約1年半ほどかかったが、その間、港の離着岸を練習したり、顧客のヨットを本州まで回航する仕事に何度か同行させてもらうことでヨットの航海を学んだ。

だが、中島が本当の航海というものを知るのは、自分自身の力で海を航行するようになってからだった。

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二つの船体をキャビンでつないだカタマラン(双胴船)は居住性の良さが持ち味。ただし、揺れがあるため、キッチンを使うのは停泊中に限られる。写真:中西隆裕

ちょっとした移動が大冒険

進水式は2023年夏。秋のうちに積雪の少ない函館に回航して越冬させ、いよいよ自分の力だけで海に出たのが2024年4月15日、スキーを積んで利尻島を目指した冒頭の処女航海だった。

「まずは函館から小樽までで4日間かかりました。クルマで走れば4時間ほどですが、ヨットだと4日もかかるんです。うわぁ、半端ないなと思いましたね。やってみて実感したんですが、ちょっとした移動が大冒険になるんです」

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強まる風とウネリに対してタフな操船が強いられる。相当アクロバティックだが、まだカメラを出していられるだけマシ。写真:中西隆裕

中島はスキーガイド経験を通して、雪山の天気やコンディションならある程度読めるようになっていた。だが、海はまったく別ものだった。天気予報は当てにならず、岬や海峡で状況が一変した。岬をかわした瞬間に爆風にさらされ、嵐のなかを命からがら港に逃げ込んだこともあった。海峡の通過も大きな冒険だった。潮流が弱まるタイミングを狙って出たものの、予想以上に流れが速く、まるで川の流れを遡っているように陸の景色がまったく変わらないこともあった。それはとても恐ろしい体験だった。

「自分でも思ってもいなかったほど自然に翻弄されています。何度も危ない目に遭いました。雪山だったらそれなりに対応できても、海ではまったく通用しない。そこが難しいし、おもしろいところでもあります。ともかく毎日が勉強です。今はなんとかやれていますが、まだまだ発展途上で伸び代だらけです」

地球のリズムに身を任せる

利尻島を滑り終えて、無事に小樽に戻ってきた中島を出迎えたヨット関係者たちは、中島にこんな声を掛けたという。「ゼロの状態からいきなり利尻島に行くなんて、南に向かうよりはるかに厳しい。なかなかのことをやってますよ」と。

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強風が吹き荒れる利尻の海を航行する。処女航海で春の北の海は、スキルの習熟度を考えると無謀な挑戦ともいえたが、それをやり遂げた中島。写真:中西隆裕

奄美で船上生活に衝撃を受けたとき、中島は40歳だった。冬はスキーガイドで、それ以外の季節はサーフィンと、生き方のパターンがそれなりにできあがっていた。そんな渦中にヨットと出会ったのだった。

「残りの人生40年で、もう一度なにかに夢中になれるような挑戦が僕にできるのだろうか。そんな漠然とした不安を覚えていたときに、ヨットで暮らす生き方に出会った。だからこそ、僕には大きな衝撃だったんです。ああ、この生き方なんだよなって」

ヨットの航海は予想以上に時間がかかるが、それも自分にとっては良かった点だと中島は言う。

「自然にあらがうのは不可能だから、急いだって仕方ない、無理なものは無理。そうあきらめがつくようになりました。存分に自然に翻弄されるなかで、いかに地球のリズムに身を任せることができるのか。それを今、ヨットで学んでいる気がします」

南に向けて舵を切った

利尻山の滑降から2か月が経った2024年7月18日。中島は小樽港を出港、進路を南に向けた長い航海が始まった。日本海沿岸を転々と南下し、11月中旬には西日本のとある泊地にカタマランを繋留して越冬の支度を調えた。

「年内はこの辺りでいったん区切りにします。もっと前進しようと思えば行けないことはなかったのですが、僕がやりたかったのは移動ではなく旅。なので、間を端折るわけにはいかなかったんです」

冬を迎えた中島は北海道に移動してスキーガイドの仕事に就いた。今のところスキーもガイドも辞めるつもりはない。そして雪が溶けたらまた船に戻り、船上で暮らしながら南下を続ける。それがこの先数年間の予定だ。

「できるだけ多くの島や港町を訪れ、船からしか見られない景色のなかで日々を生きてみたいと思っています。その先はどうなるかわからないけれど、少なくてもあと数年間はヨットの旅を続けるつもり」とは本人の弁。その後はおそらく、気分と風次第なのだろう。

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アイヌ語で理想や希望を意味する「イレンカ」と名付けた自艇のデッキに立つ中島。写真:中西隆裕

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