ポカテロ・ラウンド
故郷のスカイラインをつなぐランナーのチャレンジには、もっと大きな意味がある。
ジェルを口に近づけたが、唇に触れた瞬間に吐いた。6月末のその日は、その年一番の暑さで、空からの日差し、泥や岩からの照り返し、草いきれなど、あらゆるところから熱が立ちのぼるようだった。そよ風がヤマヨモギを揺らした時、体の奥で痙攣の波が起こり、発汗と震えが同時に押し寄せ、道端に膝をついた。伴走者のスティーヴンがいたわるように背中をさすった。吐き気が落ち着いてから涙目で彼を見上げて、「まあ、これも悪くないよね?」と笑ってやった。その後、足を引きずってコースに復帰した。20年近く挑戦を続けてきたチャレンジの54km地点での出来事だった。
アイダホ州ポカテロは山に囲まれた盆地だ。ぐるりと囲むのは巨岩の尖峰ではなく、地質時代を経て丸くなった古い山々。長年、故郷のスカイラインをつなぐ全長約116km、累積標高差約5,500mのチャレンジを夢見てきた。
仕事に行く時、子どもを学校へ送る時、食料品を買いに行く時、家路に着く時、町のほぼどこからでも、そのルートの断片を見ることができた。アイダホ州立大学の学生だった頃、教室の窓から、山々と雲が出会う、草に覆われた長い稜線を眺めていたのを覚えている。医師助手の免許を取得し、地元の診療所や病院に勤めるようになっても、心は大地が空に変わるその境界を漂流していた。
2013年に最初のチャレンジを決行し、失敗した。2015年に再挑戦し、また失敗。結局、12年にわたって計4回挑戦し、稜線の断片をつないで次第に距離を延ばしていった。脱水でヨロヨロのせん妄状態で山から脱出すること2回。ゴール目前で緊急手術の助手をしろと呼び出されること1回(シャリバテだったのが幸い)。最後は、単に心が挫けて数時間走っただけで車を呼んだ。
こうして何回も挑戦しているうちに、「ラウンド」という英国の伝統的な、ピークをつないで走るコミュニティに深く根差したランニングスタイルを知った。1800年代中頃、湖水地方の羊飼い達が裏山を走って登り降りするレースを企画し始めた。次第に、人々はレースではなく各個人でピークをつないで走るようになり、24時間以内にどれだけ多くの山頂を踏むことができるかを競い始めた。1932年、ボブ・グラハムという名のケズィックの小屋番が、町の時計塔を基点に42ピーク、約106kmを周回するという新たな基準を設定した。累積標高差は約8,200m。それが今に続く伝統の始まりだった。現在でも、ランナーたちはこの「ボブ・グラハム・ラウンド」をはじめ、ウェールズ、アイルランド、スコットランドの同様のラウンドに挑むために集っている。
ボブ・グラハム・ラウンドの美学と困難さにたちまち魅了されたが、真に私の関心を捉えたのは、それを取り巻く文化だった。「ボブ・グラハム24時間クラブ」のメンバーになるには、このルートを24時間以内に完走しなければならず、少なくとも1人の伴走者が各ピークの登頂を目撃する必要がある(伴走者はセクションごとに交替してよい)。Stravaのなかった時代、この「目撃者」ルールが、ルート完走を立証する方法だった。しかし時が経つにつれ、このルールには別の意味が生まれた。つまり、「ラウンドは本質的に、すべてがグループでの挑戦である」ということ。コミュニティの試金石となるチャレンジを設け、 懸命な努力を仲間が称えるというアイデアを私は気に入り、ここポカテロのルートでも同様のことが行えるのではと考えた。
2024年春、カレンダーの空きを見つけ、いささか急だったが、手伝いを求めるメールとインスタグラムの投稿を数件発信した。10日もしないうちに、私が正式にポカテロ・ラウンドと命名したルートで、各区間の伴走やコース上でサポートしてくれる20人以上のボランティアが集まった。慌ただしい数日の間に、スプレッドシートが作成され、分担と補給が話し合われ、SMSやメールが飛び交った。
6月21日(金)午前7時過ぎ、私は町営墓地のブレイディ・チャペルへ車で向かっていた。そこは「ボブ・グラハム・ラウンド」におけるの時計塔の代役としてふさわしいランドマークである。10人ほどのクルーが見送りに来てくれた。旧友、最近知り合った友人、元大学教授、スキーパトロール隊の仲間、私が運営するレース「スカウト・マウンテン・ウルトラズ」の出場経験者などだ。数年来の知り合いや、数日前に知り合ったばかりの人々と、ハグやハイタッチで笑い合った。
午前8時、声援と拍手の中、地元の高校生ランナー、イーサンといっしょに南5番街をスタートした。フンボルトで右折し、町の外へ続くサイクリングロードを走った。約1時間後、イーサンは私を地元の理学療法士テイラーに引き継いだ。ジャガイモや穀物が植えられたばかりの畑に沿って、数kmが楽に過ぎていった。気付かぬうちに26kmが過ぎてシンプロットの登山口に着き、ここでブリと合流した。彼女とは昨夏、あるレースで共通の友人のサポートを務めた時に出会った。名誉なことに、彼女はその日最初の私の崩壊を目撃することになる。
次の18kmで、ブリと私はスカイラインの西端に向けてあまり知られていない登山道をつなぎ、フェイサー山、ハワード山、トレイルクリーク・ピーク、キンポート・ピークの山頂を踏んだ。午前10時30分、気温は既に30℃台。ランニングは、パワーハイクになり、やがてウォーキングになった。これほど序盤で脚が上がらないのはめずらしかった。2時間半かかって、焦げた日陰のない尾根にノロノロとたどり着いた。
その後、スコット、トッド、ケヴィン、マリが、僻地のオフロードを45分かけてドライブし、キンポート山頂直下で、冷えたドリンク、コーラ、ピクルス、チップス、クマの形をしたグミ、冷たいゼリー、溶けたスニッカーズのバイキングを用意して、私たちを足止めした。この4人組のサポートクルーは(そしてこの日の後半に登場する人々も)、人生のさまざまな局面で出会った仲間だ。スコットは子どもの頃からの友人。ケヴィンは地元のランニングクラブの猛者。マリはプロのアウトドアアスリートとしての同胞。トッドは2023年と2024年のスカウト・マウンテン・ウルトラズの出場者。2年連続でトッドは制限時間を過ぎてゴールし、私たちは涙を分かち合ったが、この尾根でまた同じことになった。
次に登場したのは、ペブルクリーク・スキーパトロール隊で知り合ったウィルとグレッグだ。2人はキンポートから、ロックノールを経由して、ウェストフォーク・オブ・ミンククリークまで伴走した。日陰はなく、吐息ほどのそよ風も吹かず、37℃の熱気が黒い岩肌に反射していた。点在する数か月前の残雪は通り過ぎるにはあまりに魅力的で、私たちはその上に寝転がり、かき集め、帽子やシャツに詰め込んだ。私は雪を食べ過ぎて頭がキーンとなるほどだった。
ウェストフォーク・オブ・ミンククリークで、ウィルとグレッグは、フォトグラファーで長年のランニングパートナーであるスティーヴンに、私を引き継いだ。彼とは数々のロングランを走破してきたので、これからスカウト山の1,066mの登りに向かおうという時にはとても心強い存在だった。午後4時45分だったが、暑さは38℃近くで、ちょうどピークに達しようとしていた。体感ではさらに5℃は高い。頑張っても早足で歩くのがやっとの私たちの隣で、ヤマヨモギ、スクラブオーク、アスペンが揺れていた。この頃には、体が摂食より反抗することを選んでいた。
体の中心から吐き気が起こり、腹の中が空になった。あまりに強烈だったため、膝をついて倒れ込んだ。スティーヴンはためらいがちに私の肩をさすり、「かわいそうだが…こりゃ最悪だな」と言った。その率直な言葉はかえって私を奮い立たせ、再びトレイルをよろよろと歩き始めた。
この瞬間がくることは分かっていたし、ポカテロのルートを「ラウンド」にしたいと思った理由はまさにそれだった。ピークを踏んだことの証明なら友人は必要なかった(そのためにStravaがある)。私自身の証明のために彼らが必要だったのだ。スティーヴンの存在は、私の負荷を軽くし、ひとりで成し得る以上をやり遂げる道を開いてくれた。
3km先では、さらにコーディとケリーという友人2人が、スカウト山の登りに合流しようと待っている。コーディとは、彼が酒を飲める年齢になる前からいっしょに走っている。ケリーも同様に数年来の友人で、ランニングパートナーだ。ここまで、予想したペースよりも7、8時間遅れていた。つまり、2人は暑さと蚊の大群の中で、私たちを待っている。彼らの元へたどり着くまでに、夕暮れが迫っていた。吐き気、痛み、完全なシャリバテに苦しむさまは、思ったよりひどかったようだ。これは大変な夜になるという予感が、彼らの目の中に読み取れた。スカウト山の山頂までは6.5kmで、その区間に2時間かかった。
スコットに会った時には、影が長くなりかけていた。親友にしかできないやり方で私をたきつけようと、再び長いオフロードをドライブしてきたのだ。彼の数メートル手前で、私は汚れたわずかな残雪に倒れ込み、膝をつき、氷の結晶に額をうずめた。スコットはしばらく待ってから、かがんで私の手を掴み、起こしてくれた。彼は愛情をもって強引に私にラーメンを食べさせ、コーラを飲ませた。数時間ぶりに胃の中に入れることができた一口の燃料。そうして数分が過ぎた。
山頂からこのラウンドは稜線を北へ向かう。私はそれをエンドレスリッジ(終わりのない尾根)と呼んでいた。そこは岩が露出した登山道で、かすかなトレースがあるのみ。続く5時間強、夕暮れが暗闇に変わる中、私たちはゆっくりと登り降りを続けた。
真夜中直前に、インディアン山と呼ばれる、自宅の真裏にある高台に着いた。私のほか数人が頻繁に通う場所だ。最近他界した友人を悼むために、バックパックに入れておいたタルチョを取り出した。わずかに風が起きた。遠くでフクロウが鳴いている。しばらくの間、みな闇の中で立ちつくしていた。そして友人たちの方に向き直り、互いをハグし、目下の任務に復帰した。この先、何マイルも走らなければならない。
午前1時前後、小さな丘に登ると、300m下にライトが点々としていた。クルーが最後の補給のために待っている。ヘッドランプが下りてくるのが見えると、大きな歓声が上がった。涙が頬をつたう。小休止してエネルギーを補給し、ケリーに別れを告げた。次の伴走者となる、スキーパトロール隊員で夜明け前のチェアリフトに何度も同乗したウェイロンに挨拶する。コーディとスティーヴンを加えた一行は、再び闇の中に戻った。チャイニーズピークへの登りは、険しく、容赦ない。走るそばから、月明かりに照らされた土煙が空中にポッと舞い上がる。ヘッドランプが照らしだす円錐形の外には世界が存在しないかのようだった。軽快な会話と仲間との一体感の中で、疲労が薄まっていくのを感じた。
肉体的努力に没頭することには、異次元へのタイムトラベルに近い感覚がある。チャイニーズピークへの13kmの登りは、かなり長いと思いきや、瞬く間に過ぎていった。山頂に登ると、最後にもう1度、私たちを待っていたクルーがいた。午前3時半。こんなに遅くなるとは誰も予想していなかったし、少なくとも私は想定外だった。しかし、誰も気にしていないようだ。私をハグする人。オレンジのアイスキャンディをくれる人。そして私たちは、再び山から町へ、最後の下りに取り付いた。
誰もいないキャンパスを一行が駆け抜けると、足音が校舎にこだました。感情の波が内側から溢れ出す。満面の笑み、涙、あたたかい心。体のどこもかしこも疲労困憊だったが、友人と並んで走り、数多くの仲間のエネルギーに鼓舞され、私は無重力を感じていた。
終わりは突然やってきた。私は墓地のフェンスを掴み、歩道にしゃがみ込んだ。時計の表示は20時間13分だが、そんなことはどうでもよかった。目標はこのルートの最速記録ではなく、ただ完走すること。親しんだトレイルや山々をより深い次元で体験し、コミュニティを1つにすることだった。自分自身の時間を、睡眠を、心身のエネルギーを手放してまで私を気遣ってくれた人々に囲まれて、私は歩道に座り、泣いた。ベタな言い方かもしれないが、これらの人々がいなければ成し得なかったことだ。かつて挑戦したことがあるからこそ、私には分かる。
ポカテロ・ラウンドは、思いつきから、夢へ、そして現実になった。このチャレンジはコミュニティと愛の発信源として、また自分自身の限界を広げたい人々への呼び掛けとして存在する。興味を持った人は、進んでサポートをしてくれる多くの人々に出会えるだろう。トレイルランニングの「マジック」とは、実は魔法ではなく、人なのだ。
4か月経った10月のある夜、友人のサディアスが通りを駆け下りてきた時、私は再び墓地に立っていた。その日、私はスカウト山で彼と合流し、その後エンドレスリッジを伴走し、そのままポカテロ・ラウンド2回目の完走に同行した。そしてあの時の歩道で、また泣いた。今回は友と彼の非凡な努力に対する喜びの涙だ。それは何か特別なことの始まりのように思えた。